ボルシチの起源と調理法 第X章 ボルシチの出現

◇ 第X章 ボルシチの出現 〔HTML文書2025.6.1改訂版〕

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   第X章 ボルシチの出現

 

 

 拙論の筆者は第U章において、ボルシチの語源に関する複数の説を紹介し、「ハナウド борщ(食材名)の汁物」が新しい食材のビートと出会って劇的な変化を遂げ、深紅色のスープ「ボルシチ борщ(料理名)」が生まれたとの説を支持・展開した。料理名の由来を調べることは、単なる語源の探究にとどまらず、その食べ物が成立した歴史的な経緯を明らかにすることにもつながる。それゆえ第W章で「古代ローマ=ボルシチ起源説」の真偽を確かめるために紙幅を割いたのは、かりにこの説が正しいとすれば、ボルシチの語源を巡る議論にも大きな影響を与えると判断したからである。古代ローマ説は明確な根拠に乏しい情報として筆者は斥ける。

いわゆる「アリバイの証明」をボルシチに置き換えてみれば、ボルシチがローマ帝国時代に「なかった」と証明することは、すでに「あった」と証明することよりも、はるかに難しい。なぜなら「あった」と肯定するためには、たったひとつの記録を見つければよいのだが、「なかった」と否定するためには、古代ローマのすべての期間を通して記録がないことを証明する、または「あった」ことの証拠とされる記録をさまざまな角度から検証・評価して、肯定・否定のどちらかについて合理的に判断しなければならないからである。
同じことは古代メソポタミア説にも当てはまる。世界最古のレシピとされる粘土板の解読・翻訳だけを典拠として、ボルシチが当時すでにあったと見なすことは早計に過ぎる。

 

 拙論の第U章では、ボルシチの語源に関する日本語文献をとくに挙げなかった(翻訳書U[54−55]を除く)。ここでは参考までに、筆者の手元にある和書をひもといてみよう。
 まず、古代スラヴ語ビート⇒ボルシチ語源説については、いくつかの記述が散見される:
@「ビーツで赤い色をつけるボルシチ Борщ も好まれた。16世紀ころまではビーツそのものをボルシチと呼んでいた」[1] 146頁)。この情報は、以下の諸文献にも表れる:A「ビーツ(甜菜(1))で赤い色をつけるボルシチも好まれたが、十六世紀ごろまでは甜菜そのものをボルシチと呼んでいた」[2] 109頁)Bボルシチ borshch ロシアとウクライナの最も代表的なスープで、テンサイを具とする。16世紀ごろまではテンサイそのものの名称であった」[3] 443頁)。この百科事典[3]の項目は、同じ出版社の別の事典C[4] 557−558頁)D[5] 707頁)に転載され、また次の児童書Eや用語辞典F、野菜読本G、料理書HIなどにも部分的に受け継がれた:E「ボルシチに欠かせないまっ赤な野菜・ビーツは、かぶやだいこんの仲間。『サトウダイコン』ともよばれます。この別名のとおり、ビーツからは砂糖もとれます(2)〔中略〕なお、16世紀ごろまでのロシアでは、ビーツそのものを『ボルシチ』とよんでいたとか。ボルシチは、まさに『ビーツのスープ』なのです」[6] 7頁)F「教会スラヴ語ではボルシチとは、ビーツのこと。いってみればボルシチはビーツ汁のこと」[7] 303頁)G「もともとはウクライナの郷土料理で、ボルシチはスラヴ語でビーツのことを意味するそうだ」V[19] 217頁)H「ボルシチもそのひとつで、語源は古いスラヴ語のビーツから」[8] 101頁)I「『ボルシチ』とは古代ロシア語で『ビーツ』の意味」[9] 17頁)
 これに対して次の文献は、拙論の筆者と同じく、ハナウド⇒ボルシチ語源説を唱えている:
@「борщ, -а ボルシチ」〔中略〕「〜евик〔植〕はなうど属」(『コンサイス露和辞典』第5版62頁、борщ の項目の中に борщевик を含める)A「ロシア語 borsch『はなうど(セリ科の植物)』が語源」T[8] 626頁)B「ウクライナおよびポーランドの民族料理として知られるボルシチは、赤ビートのスープだが、元来はこのスープの名称(ボルシチ、バルシチ)で広くスラヴ人に知られていたハナウドを煮たスープであった」[10] 69頁)C「昔、ポフママプカと言われた〔中略〕スープにボルシェビク(ハナウド属ママの植物)の若い茎を入れて作った物をボルシチ(ボルシェビクから)と呼んでいました」[11] 14頁 ☞ この箇所はロシア語文献U[43] 120頁からの引用)D「ウクライナ語でボルシチとは、草(ハナウドの類、現代のロシア語では『ボルシチェヴィーク』という)や、そういった薬草の煮汁を意味する単語だった」[12] 75頁)E「もともと『ボルシチェヴィク(ハナウドの類い)』という草の若芽や茎を煮出してつくったものだった」[13](a) 244頁)F「ボルシチはもともとウクライナが発祥の地で、『ボルシチ』という名前はハナウドの類の草を指すウクライナ語の『ボルシュチウニーク』に由来すると考えられている」T[23](b) 332頁)Gママママ世紀頃(3)のウクライナで、ビーツとはまったく違うハナウド属の植物で作られたのが最初だとされている」U[72] 147頁)
 いっぽう別の文献は、「ボルシチには『投げこむ』という意味がある」と述べて、「豊かな農耕地」のウクライナで「収穫される色々な作物を大きな鍋に投げこんで作るシチュー」のことだと説明する[14] 234頁)。さらにこの語源説を受け継いだ別の文献は、「ボルシチには投げ込むという意味があり、何でも大鍋に投げ込む煮込みである」[15] 318頁)、「ボルシチには、投げ込むという意味があり、何でも大鍋に投げ込む料理でもある」[16] 375頁)と主張する(4)。しかしながらこれらの文献はロシア語・ウクライナ語の典拠を全く示しておらず、ベフストロガノフの語源説[14] 235頁、[15] 310頁)とともに、この解釈は説得力に欠けると言わざるを得ない。とはいえ、同じような都市伝説を鵜呑みにする人々があとを絶たないのも事実である(5)。前掲のルヴェルによれば、料理書の著者たちは「料理の歴史や解釈」を述べる場合は「上っ面をなで」るだけで「原資料まで溯らず」、「互いに丸写しし合うことでお茶を濁し、過去の伝説や偏見を永遠にはびこらせる」W[29] 7頁)。ルヴェルの批判は、原資料を自分の目で確かめようとせず、インターネットで得た情報を安直にコピーして公開する人々にも向けられている、と解すべきであろう。
 さて、ボルシチが現在のようなスープとして成立した時期を巡っては、いくつかの見方がある。なかでもウクライナ人の書いた料理書には、ボルシチがあたかも太古より存在していたかのような、思わせぶりの記述が目につく。「ボルシチははるか昔からウクライナじゅうで作られているスープ料理」[17] 43頁、下線部:引用者。拙論の第U章で引用した Фельдман 他U[1] 14頁・59頁)は、古代スラヴ語ビート⇒ボルシチ語源説を唱えているが、その主張を裏返せば、すでに古代スラヴ語の時代(10〜11世紀)からボルシチの原型がウクライナにはあった、ということになるだろう。たしかに свёкла(ビート)がキエフ・ルーシに伝播したのは10〜11世紀とされ、それはちょうど古代スラヴ語の時代と重なる。しかし Н.И. Ковалёв は、キエフ・ルーシに「料理用の品種[根菜類のビート]が現れたのはもっと遅くなってから」と述べて、10〜11世紀にはフダンソウ(葉菜類のビート)が最初に伝わった可能性を示している[18] 124頁)
 これに近い見解に立つ Сюткины によれば、「すでに11〜12世紀にはビートがビザンチンから[キエフ・]ルーシに渡来したことは間違いない。〔中略〕しかし当時の食習慣としては、ビートの根ではなく、葉(葉と茎)が用いられていた」W[43] 354頁)。そのうえで「16世紀までビートの根は赤色ではなく、白、黄、または黒色であった。ヨーロッパで品種改良により現れた赤色のビートは、15世紀から16世紀にかけてスラヴ諸民族に知られるようになった」、それゆえ「ビートから作った標準的な赤いボルシチは、ロシアにもウクライナにも16世紀以前に出現することはあり得なかった」と主張する(同 354頁)
 すでに拙論の第W章(45頁)で論じたように、ヨーロッパで赤い根のビートが普及したのは16〜17世紀と考えられ、この新しい品種による赤色のスープが作られたのは、早くとも16世紀以降となる。したがって『家庭訓』(16世紀の古典)の時代には、ロシアでボルシチの〈原型らしきもの〉が現れたと推測することは可能である。この場合の〈原型らしきもの〉とは、第U章(13頁)で述べたとおり、「ボルシチ(=ハナウド)の汁物」、またはそれに新しい食材のビートが加えられたものを指す。後者のビートが入ったものは、すでに赤みを帯びていたかもしれない。ただし『家庭訓』のテキスト(拙論24頁 註(14)参照)には「ハナウド」と「ビート」が出てくるが、これらの食材は自家栽培・食用・保存などが勧められているだけであって、何らかの料理名や、そのレシピが書かれているわけではない。それゆえ『家庭訓』では「ボルシチ(=ビートのスープ)」について言及されているとか、『家庭訓』はボルシチを執拗に勧めている(6)とか、そのような拡大解釈をすることはできない。
 同じように、ドイツの商人・修道士 M. Gruneweg が1584年にキエフ(現キーウ)を訪れたときに見聞した「ボルシチ」борщ[19] 161頁)は、前掲の М. Марусенков によれば、スープの名称ではなく、「ハナウド」борщевик の古語と解すべきものである(7)。なぜなら16〜17世紀の文書における「ボルシチ」борщ は、先述のように(拙論13−14頁参照)、常に植物名(=ハナウド)を意味しており、18世紀末からは植物名とスープ(=ボルシチ)の両方を指すようになり、19世紀初めになってようやく、ハナウドを борщевик と呼ぶようになったからであるU[39]。したがって16世紀末に M. Gruneweg によって記録された「ハナウド」は、ボルシチの〈原型らしきもの〉を作るために用いられたと推測することができよう。
 そして最終的にビートがハナウドに取って代わり、「ビートの汁物」、つまり現在のボルシチに近いかたちでの〈原型〉が現れたのは、早ければ17世紀以降、あるいは遅くとも「ボルシチ」борщ をハナウドだけでなく、スープの名称としても認識し始めた18世紀末のことと考えられる。次の第Y章で述べるように、18世紀末はロシアで初めて料理書が出版された時期と重なる。ちょうどこのころ『ロシア・アカデミー辞典』全6巻が上梓されU[25] 1789〜1794年)、その第1巻所収の「ボルシチ борщ」の項目には、次のような記述がある:語義 @「ハナウド」、A「ウクライナ人のあいだで、発酵ビート、およびそれを用いて牛肉と豚脂を入れて作ったスープ〔後略〕(拙論9頁参照)。М. Марусенков によれば、現在のボルシチの〈原型〉は、この辞典の記述(語義Aに見られるというU[39]。当然ながら、新しい料理が作られたあと、それが広まり、公の記録に残されるまでには、ある一定の期間を必要とする。したがってボルシチの〈原型〉が現れたのは、18世紀末よりも少し早い時期に遡ってもよいだろう。
 13世紀から始まるモンゴルの侵略と支配(タタールのくびき)の前後、ある説では12世紀から14世紀にかけて(最終的には15〜16世紀までに)、別の説では14世紀ごろ(または14〜15世紀)、さらに別の説では14世紀半ばから17世紀半ばまでの約三百年のあいだに、キエフ・ルーシを拠点とする東スラヴ系の民族は、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人に分かれるようになった(8)。前掲の Н.И. Ковалёв 他によれば、モンゴルへの従属を脱しようとする動きが強まり、中央集権国家としてのモスクワ大公国が形成される過程の中で、多民族国家の特徴も併せ持つようになり、さまざまな「物質文化の相互浸透」が起きたT[25] 4−5頁)。これに関連して、В.А. Липинская は次のように指摘する:「南の辺境の住民は、タタール人の襲撃を真っ先に受けたため」、野菜・果物などの「農業経験と南国料理の技能を携えて北方へと逃れた」U[13] 357頁、U[14] 327頁)。これらの移民の多くが最初に行き着いたのは、交通の要衝にあったモスクワである(9)。そして食文化の分野では、おそらくこの時期にウクライナからハナウドの調理法が北方へ伝わり、赤い根のビートの普及につれて、16世紀の『家庭訓』などの古文書に、ボルシチの〈原型らしきもの〉が記録されるようになったと考えられる。
 再び Ковалёв 他の区分に従えば、ピョートル大帝以前の時代、とりわけ17世紀には、ロシア料理の基本的なスープ類が形成された。すなわち、シチー(キャベツの汁物)、ボルシチ、カリヤーкалья、ウハーуха(10)等々であるT[25] 5頁)。ロシアの歴史学者 Б.Н. Миронов によれば、18〜19世紀前半、ウクライナ・ロシア南部・ベラルーシの各地域では、農民の食生活の中でシチーではなくボルシチが主要な地位を占めていた[20] 358頁)。つまり遅くとも18世紀までには、東スラヴ人のあいだでボルシチがスープ類のひとつとして認められていたことになる。
 これらの食文化が伝わる過程において、その南方の源流を遡ってゆけば、キエフ・ルーシ時代の主要な領土を占めていた、現在のウクライナに辿たどり着く。したがって上記の東スラヴ系の民族(ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人)に分かれた時期を巡る議論とは関わりなく、少なくとも地理的な位置としてボルシチの発祥地はどこかと問うならば、それは現在のウクライナであるとする見方が最も妥当であろう。
 ただし、@ 食用となり得るハナウドの品種がキエフ・ルーシの全域にわたって分布していたと仮定すれば、ハナウドの汁物は現在のウクライナ以外の領土にも、古くから知られていた可能性があること。A キエフ・ルーシの南部は、野菜栽培に適した暖かい気候と肥えた土壌(黒土)に恵まれているため、ハナウドは北方の寒冷地域のほうが、数少ない野菜の種類の中でも、より貴重な食料となった可能性があること。B 16世紀ごろ品種改良された赤い根のビートが南ヨーロッパ(例:イタリア)からバルカン半島を経て渡来したのであれば、まずウクライナの南部に伝わり、そこから北方に広まった可能性が高い。しかし新しい品種が主に中央ヨーロッパのドイツ(拙論51頁 註(18)参照)で開発されたのであれば、そこからポーランド・リトアニアを経て、ベラルーシとロシアの南部やウクライナに伝わった可能性もある。以上のことがらを考慮してみれば、ボルシチの発祥地は現在のウクライナおよび隣接するベラルーシとロシアの南部、と見なすこともできよう。前掲の Сюткины は、「ボルシチの帰属を巡る論争を公平に見るならば、その答えはひとつではあり得ないことは明白である」W[43] 349頁)と述べている。この主張は、ボルシチの発祥地はウクライナに限らず、複数の候補が挙げられるとの見解に立つものであろう。いまや世界中に広まったボルシチの出現と伝播には、ウクライナを始めとする東スラヴ人の国々がともに深く関わっていることは、紛れもない歴史的事実である。それゆえウクライナ以外の地域を完全に無視することはできないし、また逆にそこからウクライナを意図的に排除することもできない。

拙論5頁で引用した事典の一節「ボルシチはウクライナとロシアの伝統的な料理」T[14] 70頁)からWebテキストでは下線部が削除された例は、ウクライナを意図的に排除しようとする動きと見なすことができる。

 

 拙論の第U章では、ハナウド⇒ボルシチ語源説を支持する М. Марусенков の新聞記事U[39]をもとに、食材名「ハナウド」⇒料理名「ハナウドの汁物」⇒料理名「ボルシチ」の流れを一覧表にまとめた(拙論14頁参照)。ロシア語とウクライナ語共通の「ハナウド」борщ から、それぞれ語形と語数の異なる「ハナウドの汁物」が分かれ出て、最終的には共通の「ボルシチ」борщ ひとつになったことは、決して偶然の一致ではあり得ない。ロシアとウクライナが食文化の交流を通して互いに触発され、ひびき合ったからこそ、このような共通の料理名「ボルシチ」が生まれた、と言えるのではなかろうか。
 これまで筆者は、16世紀以降、赤い根のビートが普及するにつれて、ハナウドの汁物からボルシチの〈原型らしきもの〉が作られ、18世紀までには現代のボルシチに近い〈原型〉が現れた、という推測のもとで議論を進めてきた。以下、同じく筆者の推測を述べておこう。先にボルシチの〈原型らしきもの〉と〈原型〉を使い分けたのは、食材の種類と下ごしらえ、およびその調理法の如何によっては、両者に大きな違いが出てくるためである。おそらく当初の〈原型らしきもの〉は食材の数が少なく、調理法もただ容器に入れた具材を煮るという単純なやりかたで、今日こんにちのボルシチとはかなり異なるものであった。それが新しい食材のビートと出会い、すべてを赤く染める強力な作用に人々は衝撃を受けて、ちょい足し程度だったビートの分量を徐々に増やしていった。すると元来は「ハナウドの汁物」борщевые щи と呼ばれていたが、「汁物」щи の概念を超えて、全く新しい料理に生まれ変わったように思われた。そのうちビートの作付け面積や収穫量が増えるにつれて、ハナウドはしだいに利用されなくなった。そしていつのころからか「ボルシチ」борщ はハナウドではなく、発酵ビートを、さらに発酵ビートから作られた汁物をも意味するようになった(拙論9頁参照)。そのさい、広義の「汁物」щи の範疇にとどめておかず、新たに独立した料理としての名称が必要となり、従来の「発酵ビートの汁物」борщевые щи は2語で長いため、短く1語で「ボルシチ」борщ と名付けられた。結果として、もともとの食材「ハナウド」борщ と同じ綴りになった。

料理名が短縮された例として、たとえば「ベフストロガノフ」беф а-ля Строганов(3語)⇒ бефcтроганов(1語)(拙論62頁参照)、「オリヴィエ」салат Оливье(2語)⇒ оливье(1語)、「ヴィネグレート」салат винегрет(2語)⇒ винегрет(1語)などがある。これらの短縮形 бефcтроганов / оливье / винегрет は、正式の料理名として用いられる。

ロシア語には、「シチーとボルシチ」щи и борщи、「サラダとヴィネグレート」салаты и винегреты という表現がある。前半の「シチー」と「サラダ」は、それぞれに分類される料理の全体を指しており、後半の「ボルシチ」と「ヴィネグレート(ビート入りサラダ)」は、それぞれ前半の料理の一部であることを示している。すなわち、「ボルシチ」は「シチー」に分類される汁物の一部であり、「ヴィネグレート」は「サラダ」類の一部である。
この2つの料理名の組み合わせは、いくぶん奇妙に見えるかもしれないが、ここで注目すべきは、ボルシチとヴィネグレートはいずれもビートを主要食材としていることである。シチーやサラダの従来の食材が、新しい食材のビートと出会った結果、まるでシチーやサラダとは別物のようになった。しかし実際には同じ分類の料理、正餐のメニューで言えば同じコースの品目であることに変わりはない。そこで「AとB」のかたちで両者を併記することとした。筆者の想像に過ぎないが、この表現にはビートと出会った当時の人々の新鮮な驚きが隠されているように思われる。

前段の「シチーとボルシチ」には、「シチー・ボルシチ」щи борщи または逆の語順「ボルシチとシチー」борщи и щи というヴァリエーションも存在する。現代ロシアでは料理書の題名や、飲食店の名前として用いられる。同じく「サラダとヴィネグレート」салаты и винегреты も、料理書の題名になっている。

 

 さて、ボルシチの〈原型〉が生まれた要因のひとつとしては、前掲の『ロシア・アカデミー辞典』の語義に「牛肉と豚脂を入れて作ったスープ」(拙論9頁参照)とあるように、野菜と肉類、香辛料を含む食材の種類が豊富になったことが挙げられる。あるウクライナ料理のレシピ本の中で В. Струц は、約20種類の食材が渾然一体となったものをボルシチと呼ぶ、と定義している[21] 11頁)。この定義に従えば、ビート以外にどの食材がレシピに加わったかによって、ボルシチの〈原型〉とされる料理の成立時期も大きく異なってこよう。

基準カノンどおり正しく作られたボルシチ(公共の外食施設や、レストランごときで提供されるものではない!)は、濃厚な汁物となって、鍋から皿に盛られるとき、まるで溶岩流のように、ぎっしりと、燦然とあふれ出てくる。ボルシチとは、20種類以上の成分がいつも複雑に絡み合ってできた料理である。[21] 11頁)

 上記の「20種類」は、前掲の В.В. Похлёбкин の料理事典U[59] 27頁、U[60] 56頁:「平均して20までかそれ以上」や、Фельдман 他のウクライナ料理書U[1] 11頁:「20まで」、旧ソ連時代の調理学校用教科書[22] 44頁:「20まで」等々にも挙げられている数であり、いつでも気軽に作れるほどやさしい条件ではない。それゆえ次に掲げる平野高志の指摘は的を射ている:

ボルシチのレシピは、ウクライナの数あるスープの中でも最も複雑と言われ、調理時間は少なくとも3、4時間はかかる。そのため、ボルシチは、味噌汁のように毎日作るものではなく、休日に多めに作り、冷蔵庫に入れて1週間かけて食べるタイプの家庭料理なのである。T[20] 110頁)

 とはいえこの食材数は、現代のボルシチに適用されるべきものであって、ボルシチの〈原型らしきもの〉が生まれた16世紀ころには、ハナウドの汁物にビートを付け足す程度だったと考えられる。『東スラヴ人の民族学』によれば、かつてロシア最北の地で栽培された野菜はネギ(玉葱と長葱)・ニンニク・ワサビダイコンだけに限られ、南方へ下るにつれて野菜の種類も豊かになった[23] 298頁)。上記のほか、「北国の厳しい気候に耐えられるカブは、重要な根菜作物だった」[24] 258頁)。古代ロシアではカブとキャベツが備蓄食料として大量に作られ、ビート、ダイコン、キュウリなども記録に残っているが、それらの普及率は低かったU[13] 355頁、U[14] 323頁)。16世紀にはカブ、キャベツとともにビートが修道院の会計文書やその他の史料に数多く見られるようになったU[44] 178頁)。さらに17世紀になると、カブとキャベツに並び、エンドウ、ビートなどがさまざまな料理の基本食材とされ[25] 226頁)、ビートの栽培がかなり広まっていたことが分かる。「16〜17世紀にビートは完全にロシアの作物となり」、まるで古くからある地域食材のように扱われていたU[45] 128頁)。「17世紀には、ロシアのオリジナル野菜だと信じられるほど」になった[9] 55頁)。大まかに見て、ロシア北部とシベリアでは魚が主食となり、南部では多種多様な野菜があった[26] 76頁)。当然ながら、ボルシチが生まれる前提として野菜の汁物があり、いくつかの зелье(薬草・野菜)を煮込んだ варево(熱い汁物)を作る食文化がなければ、ハナウドやビートを用いた汁物も現れなかったであろう。南方のウクライナは黒土地帯に位置して、多くの野菜が栽培され、ハナウドからビートへのいわば「主役交代」は、農作物に恵まれたゆえの自然の成り行きだったとも考えられる。
 ただしビートは地中海から北方に伝わる段階で品種改良がくり返され、寒冷地でも生育する作物(11)となったはずであり、ロシア南部ではボルシチ、北部ではシチーがより好まれることの説明として、前段の気候条件をそのまま持ち出すことは当を得ていない。なぜならシチーの必須食材で南国生まれのキャベツもまた、ビートと同じように品種改良の長い歴史を持ち、耐寒性に優れた野菜(12)となったからである。したがってロシア北部の寒冷地ではビートが育ちにくいため、キャベツの汁物(シチー)が必然的に多く食べられるようになった、という説明は論理的に成り立たない。
 先ほどの議論に戻ってみよう。ビートと香辛料以外でボルシチに欠かせない主要食材のうち、キリスト教の精進日(食事制限の日)によく使われるキノコは、ロシアの一般家庭では天然物が主流であり、それらがいつ出現したのかを特定することは難しい。野生キノコは大昔から存在していた、と言うほかはない。また薬用や観賞用ではなく、食べる野菜としてロシアで広まった時期は、だいたい次のようになる。
 旧大陸系の野菜、たとえばキャベツは10世紀T[14] 248頁)、11世紀U[80] 38頁)、タマネギは「太古より」V[10] 29頁)、12〜13世紀U[80] 301頁)、またニンジンは「キエフ・ルーシ時代より」U[80] 169頁)、「14世紀」V[10] 33頁)、ロシア各地で栽培が広まったのは16〜17世紀から[27] 17頁)、等々とされる。当時のニンジンは紫色の品種が圧倒的に多く、それを用いたスープは見た目の悪い「紫褐色になるので好まれず」、17世紀初めにオランダで橙色種が作られて以来、後者が主流となった(13)。つまり、スープの色合いを良くする橙色のニンジンは、同様の効果を持つ赤い根のビートとほぼ重なる時期に出現したと言えよう。前掲のジャン=マリー・ペルトによれば、17世紀中頃のフランスでは、根菜類は「飢饉のときにしかたなく」口に入れる「最悪の食べ物(14)」であり、「それよりも下位のものは土しかなかった」V[14] 27頁)。しかしニコラ・ド・ボンヌフォンの著作『田園の美味』によって、6つの「貶められていた根菜類の名誉」が回復され、その中にはニンジンとビートも含まれた(同 27頁)。このニンジンは橙色、ビートは赤色の品種であったと見なしてよい。いっぽうキエフ・ルーシでは、「さまざまな種類の果物と野菜」が栽培され、「ニンジン、ビート〔中略〕もまた重要な位置をしめた」[24] 258頁)。その後、モスクワに政治の中心が移ってからは、ビートは16世紀以降、ニンジンは17世紀以降、それぞれ新しい色の品種に置き換わったと考えられる。第U章で触れたとおり、ハナウドの汁物は「殆ど黒い色」になって見栄えがしないため(ただし若葉の場合は緑色を帯びる)、食欲をそそる赤色のビートの登場は、ハナウドがしだいに遠ざけられる要因となったのである。
 さてボルシチの主要食材のうち、新大陸系のジャガイモは、ピョートル大帝による導入以来、なかなか耕作が進まず、ようやく普及し始めたのは18世紀末から19世紀初め(15)にかけてであった。この他所者よそものは、しだいに救荒作物として認められるようになり、19世紀後半にはロシア独自の品種も育成されたV[10] 30−32頁)。同じ新大陸系のトマトは1760年にイタリアから渡来し、19世紀に栽培が本格化したV[10] 35頁)。レシピによっては上記の新大陸系の食材を加えない場合もあるが、現在ではボルシチの最も基本的な調理にこれらを欠かすことはできない。それゆえ私たちが今日こんにち味わっているボルシチは、約二百年前の19世紀に主要食材が出そろったという意味において、比較的新しい料理と見なしてよい。

ある料理書には、ボルシチは「18世紀と19世紀の境目に現れた」[28] 60頁)との記述が見られるが、これは上述の主要食材が出そろった時期とほぼ重なっている。。
Е. Глазкова によれば、3万以上の用例が集められた В.И. Даль 編『ロシア民衆の諺』(1862年)には、ボルシチにまつわる諺と慣用句がひとつも載っていない。ボルシチはまだ歴史が浅く、いま私たちが思い描くようなものを作る習慣は、「かなり最近」になって現れたからであろう[29] 50頁)

 

 辻󠄀原康夫は、伝統料理はまるで大昔からあったかのように錯覚されやすい、と述べている[30] 18頁)。たしかに個々の料理の起源を調べて、それらを年代的に数値化すると、「民族料理といわれるものの多くは、せいぜい二〇〇〜三〇〇年の歴史にすぎない」ことが分かるらしい(同 18頁)。ボルシチもまたしかり、と言えそうだが、味覚は時代とともに変わるという前掲のルヴェルの言葉を思い起こせば、さらに踏み込んで、民族料理は百年〜数百年単位で別のものに変貌する、と解釈してもよさそうである。実際にハナウドの汁物は、その強烈な色によって「キッチンをわがもの顔に支配する」W[66] 84頁)新品種の赤ビートと出会って劇的な変化を遂げ、やはり新品種の橙色のニンジン、新大陸系のジャガイモ、トマトなどが次々に加わって、約20種類(またはそれ以上)の食材から成るボルシチができあがった。とはいえ、現在のレシピに基づく味覚が永久に伝わってゆく保証はなく、ルヴェルによれば「一千年後の読者」に正しく理解される可能性はゼロに近いW[29] 9頁)。このように考えてみれば、ボルシチは数世紀前にその〈原型らしきもの〉が生まれて以来、新しい食材と調理技術を貪欲に吸収しながら、絶えず「進化」し続けてきたスープであり、すでに地域ごとの「○○風ボルシチ」も数多く存在して、今後も大きく発展する可能性を秘めた、魅惑的な料理であると言うことができよう。
 それでは、ビートがハナウドに取って代わった理由を、ここでまとめておこう。

@ 保存食材としてのハナウドから作った汁物は、黒みを帯びることがあるため、食欲をそそる色合いではなかった。
A ロシア北部と異なり、南方のウクライナは土地が肥えて野菜の種類も多く、食料確保のための野草の重要性は低かった。
B それゆえ野草のハナウドは、すんなりと栽培野菜のビートに取って代わられた。
C ビートは自己主張の強い色と風味を持つにもかかわらず、ハナウドと比べてより広く料理に応用できる利点を持っていた(16)

 

 上述のハナウドからビートへの主役交代は、カブとジャガイモにも当てはめられる。かつて「寒冷地でも簡単に栽培でき、収穫量が多く安価」なカブ[13](b) 241頁)は、19世紀初めまで野菜の中で主要な地位を占め、ロシア北部ではパンの代用食にもなっていたが、19世紀半ば以降、ジャガイモがその役割を担うようになった[23] 299頁)。ウクライナではジャガイモは「19世紀末までに第二のパンの地位を得た」[31] 243頁)。「カブをジャガイモが押し退けて、ロシア料理に変革をもたらした。栄養に優れ、数多くの食品との相性が良いからである」U[50] 260頁、U[51] 46頁:同じ著者)

「カブ(репа)は、東スラヴ人が栽培を始めた最初の野菜のひとつである。生長がとても早く、2か月も経てば成熟する。これは*の短いロシアの中部地帯、とりわけ北部北部*を見よ)[の住民]には極めて重要なことである」T[14] 469頁)[北部:北緯82〜44度のロシアの領土(同 502頁)
「カブは、多くの果物よりも糖分が高い。昔の人たちはペチカで蒸し煮したあと、乾燥させた。そうすれば干しアンズのようなものができた。それは冬期に手に入る唯一の甘味となった。ジャガイモが現れるまで、カブはロシア人の食生活で主要な野菜であった。今日こんにち、カブは殆ど忘れ去られたが、残念なことである」[27] 15頁)

 

写真1写真2写真3 省略 ⇒ PDF文書 参照

 

 ボルシチの具体的なレシピについては、拙論の第Y〜Z章に譲るとして、ここではボルシチの先駆けとなったシチーの出現と密接な関わりのある、ロシア式暖炉「ペチカ」写真1・2に目を向けてみたい。

「暖炉」はロシア語で печь(ペーチ)と言う。その指小形は печка(ペーチカ)。前者は「暖炉」を指す一般的な言葉で、後者はそれとほぼ同義、または限定的な意味(例:小型の暖房器具)で用いられる。日本では後者の「ペチカ」が定着しているので、拙論もその表記に従う。ただし日本語の「ペチカ」は、主に「ロシア式暖炉」を意味する。
とくに形容詞を付けて русская печь(ロシア式暖炉)と呼ぶのは、一般的な「暖炉」と区別したり、たとえば голландская печь / 略語 голландка(オランダ式暖炉) や шведская печь / 略語 шведка( スウェーデン式暖炉)などとの混同を避けたりするためである。

 

 ロシア式暖炉は、煙突のないもの(17)と煙突のあるものに二分される。歴史的に見て、煙突のない暖炉が先に造られ、後世になってから煙突が付けられた。当初は粘土や石造りのかまどが現れ、そのあと粘土、または煉瓦と接着用の粘土、さらに土台用の丸太・角材(この上に暖炉を設置する)が主な材料となった。粘土製の暖炉の場合でも、まきをくべる炉床や煙突にはふつう煉瓦を用いた。後述のように、16〜17世紀までには「ロシア式」と呼ばれる暖炉が現れる。ペチカに煙突がない農民の木造家屋は「黒い家」чёрная изба、煙突がある場合は「白い家」белая изба と呼ばれた。 Сюткины によれば、16世紀の『家庭訓』第61章「屋敷〔中略〕をいかに管理するか」U[38] 125頁)は、煙突のない暖炉を前提としている[32] 30頁)。そして17世紀に入っても農村部では「黒い家」が一般的で、この時期に現れ始めた「白い家」は殆ど見当たらず、逆に都市部では「白い家」がかなり多くなった。煙突付きのペチカがあることは、都市部の住民にとっては裕福さを表すものであった(同 34頁)。別の文献によれば、18世紀から19世紀前半まで、たいていのロシア式暖炉は粘土で造られていた[33] 71−72頁、[34] 42頁)。ところが19世紀末までには煉瓦が一般の農民にも手が届くほど安くなったことに伴って、同世紀末には多くの村落で煉瓦製のペチカが現れ始めた。とはいえ、煙突のないペチカは消滅することなく、第二次世界大戦の前まで(さらに戦後も)、存在し続けたというU[50] 197−198頁、次の引用文「19世紀半ばまで」と比較されたい

暖炉 〔中略〕上面が平らで、広く大きな暖炉は、ロシア式暖炉と呼ばれるようになった。ロシア式暖炉に煙突が取り付けられるようになると、「黒い」[=煙突のない]家は「白い」[=煙突付きの]家に変わっていった。そのおかげで住居は煙、すすや一酸化炭素中毒から免れた。しかし「白い」家はあまり経済的でなかったため、農民の家では19世紀半ばまで、ずっと「黒い」暖炉を見かけることができた。T[14] 436頁「暖炉」の項目)
そのような[煙突のない]暖炉は全く意図的に造られた。というのも、壁に付着したすすは丸太が腐るのを防いでくれると見なされていたし、さらにまた、この方式のほうが住居をより速く、より経済的に暖められたからである(研究者たちの試算では、それ[=煙突のない方式]まきの消費量が半分で済んだ)。W[83] 464頁)

 周知のように、ペチカとはまきの直火が収まったあとの炭火、またはその余熱を利用してゆっくりと調理するオーブン機能を持つ、大がかりな暖房設備のことであり、農民の木造家屋изба / ウクライナ・ベラルーシ・ロシア南部 хатаは、常にこの炉を中心に建てられた。その役割としては暖房と調理(パン焼きを含む)のほかに、通気、乾燥(食品・衣類・靴など)、寝床(主に子供・老人・病人用)、蒸し風呂、治療、サモワールの排煙、防腐・防疫(煙突がない場合)、儀式、天気予報 等々、じつに驚くほど多岐にわたり、かつて「ペチカはロシア民族の生活のなかで常にもっとも重要な位置を占めていた」[35] 8頁、[36] 18頁)
 前掲の Фельдман 他によれば、ボルシチは「ゆで」варка、「炒め」жарка、「蒸し煮」тушение の熱処理を経て作られるU[1] 11頁)。このような調理法はウクライナ料理の特徴を成すもので、複数の熱処理によって「風味の相乗効果(18)」が生まれるという[37] 174−175頁)。ふつうビートは上記の「ゆで」または「炒め」の工程を経るが、「蒸気加熱」варка на пару や「オーブン焼き」запекание の方法もある。もしボルシチの食材に干しキノコ、キャベツの漬物・ビート製のクワス、ハム・ソーセージなどを使うときは、さらに下ごしらえの段階で「乾燥」сушка、「発酵」квашение や「燻製」копчение の手順が加わる。かつてハナウドは乾燥したものを常用し、キャベツとビートは塩漬け(発酵食品)を寒冷期に使っていた(『家庭訓』の記述、拙論24頁 註(14)参照)。ボルシチがいくつかの調理法を複合して作られるのは、その〈原型らしきもの〉から〈原型〉に至るまでの過程で進歩した食品加工技術とも深くつながっているからであろう。

多くの機能を持つことは、他の諸民族のかまどにはない、ロシア式暖炉の特徴である。その構造は比類なく、良いペチカを造ることは、〔中略〕常に卓越した職人技とされていた。多くのアジア諸国では、[ペチカと]似た構造のパン焼き窯が存在するが、それらは屋外に置かれて、他の機能は果たさない。ヨーロッパの[壁取り付け式の]まきストーブは、焚き火が快適な雰囲気を醸し出し、その中に吊るされた飯盒はんごうで煮炊きしたり、肉を焼いたりした。しかし火が燃えているあいだは暖かくても、消えたあとは熱を殆ど与えない。[それに対して]ロシア式暖炉は多くのことを同時にすることができた。W[83] 464頁)

 ただしペチカには油で急速に「揚げる」機能がない(19)。強いて言えば、ブリヌィ(ロシア風クレープ)をペチカの残り火で「焼く」(動詞 печь)ときの状態がそれと若干似ている(20)。もしボルシチの具材のタマネギやトマトを個別に炒める場合は、ブリヌィ以上にゆるやかな熱処理の工程が必要となる。つまり「揚げる」機能を除けば、上記の「ゆで」「炒め」「蒸し煮」「乾燥」「発酵」「燻製」などの調理・加工法は、ペチカでゆっくりと時間をかけて、いくつかの工程を同時に行なうことが基本的に可能であり、これらの機能を兼ね備えたロシア式暖炉があったからこそ、シチーやボルシチのような煮込み料理が発達したと考えられよう。

ペチカはまきで焚いた。食べ物は焚きつけのあいだ、またはそれが終わったあとで調理した。パンやピローグ[ロシア風パイ]は焚きつけが完了して、炭火が掻き出され、炉床もほうきで掃き清められ、煙突が閉じられたあとで、ペチカの中に入れられた。ペチカで食べ物を調理するためには、特別な容器が必要であった。何よりもまず、ゴルショーク[粘土製の壺]やチュグーン鋳鉄ちゅうてつ製の壺]がペチカで用いられた。それらの下部は、上部よりも狭かった。そのような容器は、下のほうを炭火で囲むことによって、加熱を速めることができた。[38] 431頁)
 ゴルショーク[粘土製の壺]の形状は、その存在の全期間を通して変わることがなく、ロシア式暖炉で食べ物を調理するためにうまく適合していた。ゴルショークは[ペチカの中で]燃えるまきと同じ面に置かれて、焚き火台のように下からではなく、横から熱が伝わった。ペチカの炉床に置かれたゴルショークは、下の狭い部分の回りが薪火まきびまたは炭火で囲まれているため、四方からの熱に包み込まれた。[39] 160頁)

 ペチカの優れた特徴は、ゴルショーク(горшок、指小形 горшочек = 写真3欠点:割れやすいと呼ばれる粘土製の壺、チュグーン(чугун、指小形 чугунок = 写真3欠点:重たいと呼ばれる鋳鉄ちゅうてつ製の壺、または軽量なアルミニウム製の壺写真2に食材を入れたまま、「ゆで」と「蒸し煮」の工程(「2段階の熱処理」:[36] 174頁)を連続して行なえるところにある(21)。これらの容器は、それぞれくちと底の面積は狭いが、楕円状に膨らんだ胴のおかげで容量は多くなり、熱効率にも優れており(22)、ペチカとの相性が抜群に良い。小型の粘土製(горшочек)の場合は、グラタン皿のように調理容器と食器を兼ねることもできるので、そのまま食卓に出すことも可能である。蓋の代わりに発酵パン生地を被せて焼けば、日本で人気のある「壺焼き」として供せられる。蓋を被せて調理する場合は、気密性が高まって、無水鍋のような効果も期待できよう。
 しかしながら多くの機能を備えたロシア式暖炉の欠点は、その設置面積が住居の中で大きな割合を占めることであったU[50] 198頁)。それは「床面積のほぼ3分の1」[40] 44頁)、「全面積の四分の一まで、または三分の一まで」U[50] 196−197頁)、「家のまるまる四分の一」[34] 43頁)、「小屋全体の四分の一」[41] 331頁)、あるいは「家の約四分の一から五分の一」U[52] 18頁)、「居住空間の四分の一から五分の一」[12] 189頁)を占めていた。ロシアのある地方では、次のような言い回しがあった:「家の中のペチカは、教会の中の至聖所と同じ。そこ[=ペチカ]でパンが焼かれるから」Печь в дому − то же, что алтарь в церкви: в ней печётся хлеб[42] 189頁)。この言い回しは、「パンが焼かれる場所=暖炉は、家の中で最も神聖なところ」[12] 191頁)であることを教えている。後述のように、ロシア人にとってパンは「神の賜物、または神のかたち」T[14] 592頁)そのものであって、それを焼くときには炉床が専用のほうきで掃き清められ、ふつうの調理というよりも、特別な儀式のように執り行なわれた[43] 32頁)。したがってこの言い回しは、ペチカが占める割合の大きさを、至聖所(алтарь 別訳「祭壇」)になぞらえているわけではない(23)

パン 〔中略〕ロシア人*の民族文化的な意識の中で、パンは存在の最高価値に属するものである。パンは東方正教東方正教*を見よ)のキリスト教儀式[例:パンとぶどう酒の聖体礼儀]の中で用いられ、神の賜物、または神のかたち[創世記1:27]自体と理解される。パンを投げ捨てる行為は大きな罪となる。その昔、硬くなったパンは乾燥させて、乾パンは「黒い日に」、つまり飢饉のときに備えて保存した。T[14] 592頁 「パン」の項目)

 「ある郷土史家が十九世紀中頃に書いているように、『ロシア民族にとってペチカは乳母のようなものである。それはパン焼き窯でもあり、料理女でもあり、寝床でもあり、風呂でもある』」[36] 18頁)。この見方に対して、ペチカの歴史を考古資料に基づいて調べた Сюткины は、ロシア料理の形成にペチカがすべて関わっているとの考えは「素朴な誤解」[32] 22頁、W[43] 70頁)であり、「ロシア式暖炉は私たちの祖先のあいだで決して唯一の調理器具ではなかった」[32] 38頁、W[43] 82頁)と述べて、とくに19世紀以降、ロシア料理はペチカの枠をはるかに超えて発展したと主張する[32] 43頁、W[43] 88頁))。さらにこの暖炉が独特の構造を持つようになったのは15〜16世紀[32] 38頁)、そして「ロシア式」と名乗るにふさわしく進化して、調理機能も充実し始めたのは、ようやく16〜17世紀になってからだと指摘する(同 42頁)。これは前述の品種改良による赤い根のビートや橙色のニンジンが現れたと推測される時期とほぼ重なっている。つまり、これらの諸条件(新しい食材との出会い、調理機能の進化など)が出そろったときに、新しい料理=ボルシチが生まれたと言うこともできよう。

ロシアにおける暖房の歴史に関する研究書によれば、石または粘土製の原始的なかたちの暖炉は、ロシアでは長いあいだ、地域によっては17世紀まで存在し続けた。より複雑な構造を持つ暖炉は、15世紀にどこかで偶発的に作られたかもしれないが、一般的には16世紀初めになってようやく現れた[44] 15頁)。この見解は上述の Сюткины の主張を裏付けるものである。

 

 以上、ロシア式暖炉がボルシチの出現と形成にどのように関わってきたかについて、若干の考察を試みた。すでに第T章(4頁)で述べたように、拙論の目的は、主にロシア食文化史の流れに沿って、ボルシチの出現過程を見極めようとすることである。ここではさらに具体的な時期を絞り込むことはせず、筆者の推測に過ぎないとの断り書きを付けたうえで、ボルシチの〈原型らしきもの〉は16〜17世紀に、ハナウドからビートへの主役交代を経た〈原型〉は18世紀までに現れた、と述べるにとどめておきたい。
 先に指摘したように、ペチカの欠点は大がかりな暖房設備として場所を取り過ぎることにある。それゆえ17世紀末〜18世紀初め以降、ピョートル大帝に始まるロシア社会の近代化が徐々に進み、ペチカの代わりに直火で調理する暖炉が広まるにつれて、とくに都市部の集合住宅の人たちは、ロシア古来の料理をペチカの無い条件で作ることが難しくなった。言い換えれば、いままでロシア式暖炉に頼ってきた数々の調理法による味づくりを、いわば「再現」する必要に迫られたのである。それが要因のひとつとなって、ペチカでは同時にできた複数の調理法を別々の容器に分けて行なったり(例:「ゆで」と「蒸し煮」)、具材や調味料の種類を増やしたりして、失われたペチカの機能を補おうとしたのではなかろうか。そしてこのような時代の変化に合わせて、19世紀にロシアで出版された料理書のレシピは、その大半がすでにペチカの無い台所を前提とするものになっていた。ただしまきを節約する目的で、ペチカの焚き口に直火の調理台を取り付けたり(24)、富裕層のやかたではヨーロッパ式とロシア式の異なる暖炉を併設したり(25)して、いくぶん改善策が講じられてきた。旧ソ連時代のロシアでは、ガス・電気レンジや石油こんろなどが普及して、都市部と同じく農村部でも日常の調理はこれらの器具を用いるが、ペチカの備わった家では、冬季に限って昔ながらの熱源を使う所もある[23] 311頁)。さらに最近では、圧力鍋が進化した多機能家電のマルチクッカー(мультиварка)も現れて、その複合的な調理法により、ボルシチやポトフなど時間のかかる煮込み料理を手軽に作ることができるようになった。
 もちろん、上述の新しい調理器具がペチカの役割を充分に果たせたわけではない。ある料理書によれば、「ペチカでじっくり煮込んだシチーの味は、決して忘れ去ることができない。直火の調理台の出現は、ロシア料理が発展するために新たな段階を迎えたことを意味していた。[しかし]直火で調理した食べ物の最大の欠点は、その比類なき味と香りが失われてしまったことにある」[45] 12頁)。とりわけシチーの奥深い風味は、ボルシチ(広義のシチー)も含めて、ペチカ以外の調理器具ではなかなか出せないものであろう。「シチーはロシア式暖炉の中で何時間も置かれるが、そうして初めて、そのすべての成分が一体化した料理となる」[46] 143頁)。このような優れた特質を持つペチカは、現代ロシアでも見直されつつある。たとえば両首都(モスクワとサンクトペテルブルグ)のレストラン(26)では、ピザ窯のように調理機能に特化したペチカで作る料理を売り物にしており、同様の例は他の地域でも見受けられる。またペチカで調理するためのレシピ本[47]、ペチカを自宅で手作りするための指南書[48]と復刻本[49]、修理の手引き[50]などの実用書も出版された。これら一連の動きは、まだ小さなうねりに過ぎないが、いわばスローフードにも通じるものであり、とくにロシアの農村部や別荘地においてペチカが日常的に用いられ、その良さが再認識されたことを如実に物語っている。

 

 これまでの議論をまとめてみると、ボルシチが作られ、変化してゆく過程は、次のようになる。

  1. 東スラヴ人の国家キエフ・ルーシに、10〜11世紀ごろビートが渡来した。それは主に葉と葉柄を食用とする品種であった。
  2. 13世紀から始まるモンゴル支配のもと、分化した東スラヴ諸民族のあいだでモスクワ大公国を中心に国家統合の動きが強まり、南方の肥沃な黒土地帯にあるウクライナの食文化も北方へと伝わった。
  3. 15〜16世紀には今日に近いかたちのペチカが現れ始めて、その複合的でゆるやかな熱処理の機能を活かした煮込み料理が発達した。
  4. 16〜17世紀ごろ、品種改良により赤い根の料理用ビートが普及し、ハナウドの汁物にビートが加えられて、ボルシチの〈原型らしきもの〉が生まれた。
  5. いくつかの理由により、ビートがハナウドを押し退けて、ボルシチの必須食材に取って代わった。ただし料理名は元の食材名(ハナウド⇒発酵ビート)が慣習的にそのまま残った。
  6. 18世紀以降、ロシア社会の近代化に伴ってペチカが減少し、直火の調理台でボルシチの味を継承するため、熱処理や食材の面でさまざまな工夫がなされて、今日こんにちのかたちに近いボルシチの〈原型〉が現れた。
  7. 19世紀以降、基本的な食材が出そろい、ボルシチはウクライナ起源の代表的なスープとして確立した。また今後も新しい食材や調理法と出会って、さらに進化を遂げる可能性もある。

 

 

     〔第X章 註〕 文献 戻る

(1) 甜菜てんさいは料理用ビートではない。両者を同一視すると、そこから後掲の児童書[6]のような誤解が生じてくる(次の註(2)参照)
(2) この記述には2つの根本的な誤りがある。まず、カブやダイコンはアブラナ科に分類され、アカザ科に属するビートと同じ仲間ではない。次に、サトウダイコン(テンサイ)は料理用ビートの「別名」ではなく、別の変種であり、砂糖の原料となるのは料理用ビートではなく、サトウダイコンのほうである。この誤りを意識したかどうかは分からないが、この本[6]のあとに出された別の児童書には、次のような説明がある:「アブラナ科のダイコンやカブに形は似ていますが、違う仲間です。栽培されているビーツには食用のほかに、砂糖を採るテンサイ〔中略〕があります」[51] 12頁)
(3) 東スラヴ人の国家としてのキエフ・ルーシが成立したのは9世紀末。それゆえ「5〜6世紀頃」には、まだ「ウクライナ」と呼ばれる国家も民族も存在しなかった。
(4)

「ボルシチ=投げ込む」語源説は、『食の文化話題事典』[14] 234頁)に載っている:「ボルシチはウクライナ地方の代表的な料理の一つである。この地域はロシアで最も豊かな農耕地でいろいろな種類の作物が実る。ここで収穫される色々ママな作物を大きな鍋に投げこんで作るシチューの事であり、ボルシチには『投げこむ』という意味がある」。この説は、岡田 哲『世界の味探究事典』、「ボルシチ」の項目[15] 318頁)に受け継がれた:「ロシアのウクライナ地方の煮込みスープ。〔中略〕ボルシチには投げ込むという意味があり、何でも大鍋に投げ込む煮込みである」。同上書373頁には、参考文献として『食の文化話題事典』が挙げられている。
その後、岡田 哲『世界 たべもの起源事典』[16] 374−375頁、文庫版644−645頁)では、ハナウドに言及した箇所が新たに追加された:「ロシア語のborsch/ハナウド)が転じて、ロシア語のボルシチになる。ボルシチには、投げ込むという意味があり、何でも大鍋に投げ込む料理でもある。〔中略〕ボルシチの調理法の面白さは、多種多様な素材を〔中略〕最終的に一つの大鍋に収めることである」。つまり、岡田 哲は《ロシア語 борщ「ハナウド」⇒「投げ込む」⇒「ボルシチ」》という独自の語源説を唱えているわけだが、борщ に「投げ込む」意味があると主張する根拠(例:ロシア語辞典)をどこにも明記していない。
前掲の Фельдман 他によれば、16〜18世紀にウクライナの領土を守ったカザークたちは、金属鍋や粘土製の壺がないときに、木のうつわに食材と水を入れ、焼け石を次々に「投げ込みながら」(бросая ← бросать 投げる)煮炊きしたU[1] 9頁)。この故事に、彼らが野営地でボルシチを発明したとする主張が結び付いて、同上の語源説が生まれたのだろうか?

(5)

前掲『食の文化話題事典』[14] 235頁、1993年)によれば、「ビフストロガノフのビフはビーフと思われ、ストロガノフ風牛肉料理の意味ととられる事が多いが、ロシア語ではべフ・ストロガノフと言い、ベフは〇〇流とか〇〇式とかという意味で『ストロガノフ流』という事になる」。この語源説は、岡田 哲『世界の味探究事典』[15] 310頁、1997年) にも受け継がれた:「ベーフには、何々流、何々風という意味があり、直訳すると、ストロガノフ流の肉料理となる」。さらにこの説は、21世紀研究会編『食の世界地図』[52] 328頁、第7刷2007年〔第1刷2004年:筆者は未見〕)にも継承された:「ベフ・ストロガノフとは『ストロガノフ流』の意味」。同上書は「おもな参考文献」(329−331頁)の中で『世界の味探究事典』[15]を掲げており、「ベフ=何々流」説はこの事典から引用したものと思われる。しかし岡田 哲は後年『世界 たべもの起源事典』[16] 2005年・文庫版2014年)、「ビーフストロガノフ」の項目(324頁・文庫版559−560頁)において、「ベフ=何々流」説を削除し、「ストロガノフ流の肉料理という意味がある」とだけ述べて、この説を事実上撤回している。
それにもかかわらず、この誤情報は拡散され続けて、ついに某テレビ局のクイズ番組でも取り上げられた(第28回 2016年7月10日放送)。同番組では、牛肉に限らず、豚肉や鶏肉を用いる場合もあることが紹介され、「名前の由来の衝撃の事実」(テロップ)として、ベフは英語のビーフ(牛肉)ではなく、ロシア語で「〜流」の意味がある、したがってベフストロガノフは「ストロガノフ流」という意味になる、と報じられた(都内のロシア料理店店長・ロシア語話者による解説付き)。たしかに牛肉以外のアレンジレシピ(拙論23頁 註(11)参照)があることは事実だが、その論拠としてベフには牛肉の意味がない、という誤情報を鵜呑みにしたテレビ局のチェック体制の甘さが問われよう。同番組は再放送も含めて結果的に、日本人の三割も知らない、いやロシア人の十割も知らない都市伝説を広めたことになる。
前掲の В.В. Похлёбкин によれば、ベフストロガノフには бефcтроганов のほか、беф а-ля Строганов という綴りもあるU[59] 20−21頁、U[60] 40−42頁)。前掲の А.Е. Аникин は、この綴りはフランス語 bœuf à la Stroganoff(ストロガノフ流 牛肉)をロシア文字で表記したもので、галлицизм(フランス語風表現)の一種と見なしているU[65] 第3巻161頁)。これに対応する短縮形は бефcтроганов、ロシア語訳は говядина по-cтрогановски(ストロガノフ流 牛肉)。当然ながら、科学アカデミー版ロシア語辞典(例:МАС〔第2版 全4巻〕第1巻88頁、БАСРЯ〔全30巻予定・刊行中〕第1巻628頁、бефcтроганов の項目)にも「フランス語 bœuf(牛肉)より」とあるように、名詞「ベフ」беф(別綴 бёфの語義は「牛肉」であり、「何々流、何々風」の意味は全く無い。この意味を作り出すためには、ロシア語では接頭辞 по-(...流)または外来語 а-ля(...流)を用いる。たとえば「ストロガノフ流」という意味では、上記のように по-cтрогановски または а-ля Строганов となる。ただし а-ля はフランス語 à la 起源の外来語であり、ロシア語における実際の用例はごく限られている(例:торт а-ля Наполеон ナポレオン風レイヤーケーキ)。ちなみに日本語の用例では「アラモード」「アラカルト」などがある。
かりに百歩譲って「ベフ=何々流」説が正しいとすれば、ベフストロガノフの直訳は「ストロガノフ流の肉料理」[16] 310頁)ではなく、食材名が消えて副詞「ストロガノフ流」だけが残るため、ロシア語の料理名としては極めて異例かつ不自然である(拙論74頁 註(21)参照)
最後に、料理名の表記について一言。日本ではフランス語由来のロシア語「ベフбеф」を英語 「ビーフbeef」に替えて、なぜか英語風に 「ビーフストロガノフbeef Stroganoff」と呼び慣らすのが定着している(例:国語辞典の見出し語、露和辞典の訳語など)。しかし本来ならばロシア語の料理名を尊重して、「ベフストロガノフбефcтроганов」と表記すべきではなかろうか。この料理名のアクセントは第2音節にあるので、それを考慮するならば、「ベフストローガノフ」となる。

(6)

М.Г. Рабинович[53] によれば、≪Борщ же в XIX в. готовили преимущественно в южнорусских губерниях. Однако о более раннем времени этого нельзя сказать с уверенностью, поскольку в XVI в. борщ настойчиво рекомендует Домострой − московский источник, возможно, новгородского происхождения≫ 「ボルシチは19世紀には主に南ロシアの各県で作られていた。しかしながら、より早い時期について断言することはできない、なぜなら16世紀に、おそらくノヴゴロド起源の、モスクワの史料『家庭訓』はボルシチを執拗に勧めているからである [53] 227頁、下線部=引用者)
この文章は論旨不明で、理解できない。にもかかわらず、16世紀にはロシアでボルシチが作られていたと主張するために、しばしば下線部だけが切り取られ、各種ロシア語サイトで援用されている。

(7) M. Gruneweg の旅行記はドイツ語で書かれ、ロシア語への抄訳が独露対訳のかたちで出版された[19]。ここで「ボルシチ」борщ と訳された原語は barßcz(同 161頁)で、当時の発音に基づく表記と思われるが、訳註は付けられていない。М. Марусенков によれば、「ボルシチ」борщ は歴史的な文脈から見て、「ハナウドとそれから作った汁物」を指すことは明らかであるU[39]。たしかに旅行記の一節には、キエフ(現キーウ)の人々は「これ[борщ]は毎日の食べ物かつ飲み物なので、それぞれ自宅で作る。それゆえめったに、または決して、[市場では]買わない」[20] 161頁)とあって、barßcz から борщ と訳された語をボルシチ(ビートのスープ)ではなく、ハナウド борщевик と解したほうが、筋が通って分かりやすい。かりに市場で売られていたとすれば、それは食材のハナウド(生野菜・乾物・漬物など)のほうがはるかに可能性が高いからである(拙論24頁 註(14)『家庭訓』のテキスト参照:「家族の少ない者はそれ[=ハナウド]を他の食料品を買うために売ればよい」)
(8)

@ 12〜14世紀⇒15〜16世紀:ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の「三民族(およびその言語)の起源については、学者間に大きな見解の差があるが、一般的にはつぎのように考えられている。三民族はある時期(およそキエフ時代の終わり)までは単一の『ルーシ』民族を構成していたが、十二世紀から十四世紀にかけて分化しはじめ、十五〜十六世紀にはほぼ完全に独立の存在となった。分化にいたる背景として考えられるのは、まず十二世紀にはいり、キエフ大公国の分裂傾向が急速に進んだこと、ついで十三世紀前半のモンゴルの侵入とその後の支配がこの分裂を固定化させたこと、さらに十四世紀になって、南西・西部地方がリトアニア、ついでポーランドの支配下にはいるにいたったこと、である」[54] 175−176頁)
A 14世紀ごろ(または14〜15世紀):「スラヴ人の分化は、〔中略〕移住の初期からはじまっているが、東スラヴ人の分化は最も遅く、モンゴル侵入後にヨーロッパ・ロシアにおける政治勢力の版図が変化し、その結果東スラヴ人の居住域が政治的に分割された結果、十四世紀ごろにはじめてロシア人、ウクライナ人、ベロルシア[=ベラルーシ]人が分化する。ウクライナの名称は、当時のモスクワ公国からみた『辺境』を意味する言葉に由来し、『白ロシア』を意味するベロルシアについては、諸説があってその語源は不明である。なお革命前は、対比的にウクライナは『小ロシア』、ロシアは『大ロシア』とも呼ばれた」[10] 57頁、[55] 51−52頁)
「第二段階は十三世紀前半のモンゴルの襲来です。特にひどかったのは一二三〇年代で、このときキエフ・ルーシはモンゴルに滅ぼされ、国家として完全に滅亡したといっていい状況でした。これをきっかけに、十四世紀から十五世紀にかけてロシア、ウクライナ、ベラルーシの三つの国が生じていくことになります」[56] 47頁)
B 14〜17世紀:「十四世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから、十七世紀半ばにコサックがウクライナの中心勢力になるまでの約三〇〇年間、〔中略〕リトアニアとポーランドがウクライナを支配した。〔中略〕キエフ・ルーシ公国の時代にはほぼ全域にわたって単一のルーシ民族であったものが、この期間中に、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三民族に分化した。〔中略〕キエフ・ルーシ公国の末期からすでに分化し始めていたと想定される言語も、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれ独立した言語になっていった。また『ウクライナ』という地名が生まれたのも〔中略〕この時期である」[57] 59−60頁)
C 上記の通説に対する異論:「以上のような見解に反対する研究者も少なくない。とくに問題となるのは、キエフ時代まで単一の『ルーシ』民族が存在したと考えられている点である。反通説論者によれば、『ルーシ』はがんらいキエフを中心とする地方とそこに住む住民(ポリャーネ族など)をさす語であり、のちにキエフ諸公の支配圏が拡大して、キエフ大公国領の諸地方の人びともその名でよばれるようになったが、彼らが単一の民族であったわけではない。キエフ中心の『ルーシ』はのちにウクライナ人となり、大ロシア人はキエフ大公国領北東部のいくつかの諸族から成立した。三民族の成立期もそれぞれことなり、ウクライナ民族は九〜十一世紀、大ロシア民族は十二世紀から、ベラルーシ民族は十四世紀中ごろ形成されはじめた」[54] 175−176頁)

(9) 「もともとモスクワ川のほとりに作られたこの国」は地の利を得ていた。「もっとも重要だったのは南からの水路で、南ロシアがモンゴル支配下に衰えてくると、多くの移民が北東ロシアへと移動したが、モスクワはその最初の居住地となった」[58] 91−92頁)
(10) ここでは詳細を省くが、Ковалёв 他は、「カリヤー」「ウハー」ともに現在の一般的な定義とは異なる意味で用いているT[25] 5頁)
(11) 料理用ビートは「かなり耐寒性が強い」U[80] 328頁)。「冷涼性の野菜で、高温下での栽培は困難である」W[57] 230頁)
(12) 「キャベツは寒い土地でもよく育ち、収穫量も多く、冬のあいだ保存もきくため、あっというまに北ヨーロッパの主要野菜となった」[59] 63頁)。「冷涼な気候を好むが、栽培適温は5〜25℃と範囲が広く、耐寒性も強く、露地条件でも北から南まで広く栽培できる」[60] 122頁)
(13)

@「初期のニンジンはほとんどが紫色で、そのほかに白や黒もあったが、オレンジ色はなかった」[59] 128頁)
A「もともとは白か、淡い黄色あるいは紫色をしていた〔中略〕。とにかくニンジンは長いあいだあまり評価されていなかったが、それは皮が固く、えぐみが強いうえに、芯もあまり軟らかくなかったから」。〔中略〕「今日われわれが知っているような、オレンジ色で甘みをもったニンジンが現れたのは、17世紀のオランダで、さまざまな交配の結果だった」[61] 167頁)
B「現在、西洋系の代表的なニンジンとされる短根で橙黄色の品種群(三寸ニンジン)は、17世紀になってからオランダで改良されたものがもとになっている」W[63] 365頁)
C「欧州系は〔中略〕世界中に広く栽培されている。1618年オランダのウトレヒトで4〜5本絵に書かれているのが初期で、その後オランダで改良され、オランダを中心に発展した」[62] 133頁)
D「当時は紫色長ニンジンが主で、橙黄色種は、オランダのロッテルダムで1650〜1652年ころ Late Horn の記載と、1636〜1684年同じロッテルダムで Half Long Horn 型の赤橙色の中長種の記載とがあり、オランダで初期の改良が行なわれ、オランダを中心に発達したものとみられる」[63] 11頁)
Eニンジンの「一六世紀までの品種は紫色または黄色の長根系統で、とくに紫色種が普遍的であった。しかし、紫色種はスープの材料に用いた場合、紫褐色になるので好まれず、黄色種が主体となり、さらに一七世紀の初め、オランダで黄色種から橙色種の選抜に成功し、以後、橙色種が普及するようになった」[64] 196頁)
F レベッカ・ラップは、紫色のニンジンは「加熱すると色がまずそうなくすんだ茶に変わってしま」い、料理人に敬遠されたため、黄色や「見栄えのいいオレンジ色のニンジン」が現れたあと、紫色の「人気は急落した」と述べているW[20] 109頁)。「まずそうなくすんだ茶」とは、おそらく大便を連想させる色を指すのであろう。

(14) 中世ヨーロッパでは、「食べ物が地に近いか、天に近いか」によって、創造の上位・下位のランク付けが決まるという考えかたが存在した。それゆえ果樹は野菜よりも上位であり、地中で成長する根菜類は、地上で成長する葉菜類よりも下位であった[65] 147頁)
(15) 前掲の Фельдман 他によれば、ウクライナで赤いボルシチにジャガイモを入れるようになったのは「19世紀後半から」というU[1] 59頁)。別の文献:「ウクライナでジャガイモは18世紀後半に現れたが、食用作物として広く普及したのは19世紀後半になってからである」U[49] 14頁)
(16)

さまざまなビート料理に特化したレシピ本の存在は、ビートが比較的広く応用できる食材であることを示している。以下、いくつかの例を挙げておく。
@ Поскребышева Г.И. Свёкла столовая и листовая. М., 2000.
『料理用ビートとフダンソウ』内容:各種レシピと保存法
A Дубровская Л.А. Лучшие рецепты салатов из свёклы. Сборник. Б. м., б. г.
『ビート入りサラダの最良レシピ集』〔ЛитРес 電子書籍〕
B Дубровин И.И. Всё об обычной свёкле. Б. м., б. г.
『いつものビートのすべて』内容:栽培・レシピ・薬効・化粧・保存法など〔ЛитРес 電子書籍〕
C 荻野恭子、前掲書V[33]
D 山崎志保、前掲書V[13]

(17) 煙突のないペチカは、いくつかの欠点と利点を併せ持つ。欠点としては、天井や壁にすすがこびりつくこと、焚きつけのときは一時的に煙が充満すること。それゆえ煙でいぶされた室内にはゴキブリやトコジラミなどの害虫がいなくなるので、防疫の面では利点となる[48] 61頁)。さらに、より少ない燃料でより多くの暖房が効率的にできるため、また室内の通風・乾燥・消毒・木材の防腐などに優れているため、下記の引用文T[14] 436頁)にあるとおり、19世紀半ばまで、大多数のロシア農民は煙突のないペチカを焚いていた。このようなペチカのある家屋は耐用年数が長くなることが知られている[39] 50頁)
(18) 「ボルシチの例でみたように、多種多様な材料のうち、あるものは炒め、またあるものは煮て(1次処理)、次にこれらをいっしょにしてとろ火で煮たり、オーヴンで焼いたりする(2次処理)。こうした2段階の熱処理は、それぞれの材料の持ち味を生かすとともに、最終的には風味の相乗効果によって独特の味を作り出すのである」[37] 174−175頁)
(19)

ペチカの焚き口はオーブンのように周りを囲まれているため、「Жарить во фритюре(熱した多量の油で揚げる)ことは、ロシア式暖炉では不便である」T[25] 50頁)。同上箇所を6行にわたって引用した前掲の Сюткины は、共著者のひとり Н.И. Ковалёв の名前を記すだけで、文献名と頁数は明示していない[32] 40−41頁)
「もともと油を使って強い直火で急速に『炒める』〔中略〕という調理法自体がペーチ[=ペチカ]では無理なため、長いこと一般化しなかった」[12] 193頁)

(20) ブリヌィのような薄いクレープ生地を焼くことは、ペチカの中で残り火がまだ燃えている状態では充分可能である。複数のブリヌィを同時に作るため、フライパンを2〜3枚連結したものが用いられた[23] 311頁)。ちなみに現代ロシア語で「ブリヌィを焼く」は печь блины と言う。熱処理の違いによって、動詞 печь(オーブンで焼く)と жарить(直火で焼く)の2つを使い分けるが、ペチカではなく直火でブリヌィを焼く場合も、慣習的に печь を用いるのがふつうである。ただし熱処理の実態に合わせて、жарить блины の言いかたもかなり広まっている。
(21)

かつてシチーはロシア式「暖炉の中で、蓋をした粘土製の壺に入れてゆでていた(варили)ので、発酵キャベツを個別に蒸し煮する(тушить)必要がなかった」T[25] 203頁)
〔参考〕
ロシア語の горшок(ゴルショーク)には、「壺」のほかに「おまる・便器」の意味がある。とくに郊外の別荘で、トイレが母屋から離れている場合などは、ночной горшок(夜間のゴルショーク)は大人にも必需品(ふつう蓋付きポリバケツで代用)
『研究社露和辞典』392頁、горшок の項目には、「〔料理〕ゴルショーク ⦅クリーム入りじゃがいも・肉などの壺煮⦆」とあるが、これは日本のロシア料理店やレシピ本で見かける名称を載せたものと考えられる。例:「ГОРШОКガルショーク С ГРИБАМИグリバーミW[64] 199頁、前置詞 С の発音「ママ」、正しくは「ズ」)。しかしながら他の露和・露露辞典に同上の語義は載っていない。たしかにロシアでは горшок の指小形 горшочек の前置格形 в горшочке(直訳「壺の中の」)を用いて、たとえば борщ в горшочке(壺入りのボルシチ)と表記する例も見られるが、この場合でもロシア語の料理名には食器名を主格形で使わないことに留意すべきである。
筆者の知る限り、文責不明のインターネット情報は論外として、少なくともロシアで出版された紙媒体のロシア語料理書の中で、主格形 горшок / горшочек を用いた料理名は見当たらない。つまりロシア語で「ゴルショーク」という料理名は存在しない。
ロシアには日本の「ざる(=笊蕎麦)」「茶碗蒸し」「天丼」「寄せ鍋」のように食器名を用いる習慣はなく、あくまでも食材名の主格形が料理名の基本となり、それに食器名を付け足すときは、食器名を主格形以外に変化させるのが通常である。
フランスの代表的な家庭料理 pot-au-feu(「ポトフ」、原義「火にかけた鍋」)は、同国料理の中でも食器名が料理名の主体となった、極めて珍しい例と言えよう。☞ 同じく「鍋」から派生した potage(「ポタージュ」、原義「鍋の中身」) について:拙論80−81頁参照。
ちなみにサンクトペテルブルグで発行されたロシア料理書(7か国語版)のうち、ロシア語原典[66] 98頁)では русское жаркое в горшочке(直訳「壺入りのロシア風 肉料理」)[壺=前置格形]、日本語版[67] 98頁)では「ゴルショーク(壺焼き)」となっているが、前述のように、食器名・主格形の「ゴルショーク」はロシア料理名として不自然であり、的確な訳語とは言えない。

(22) ふつうの鍋と比べてゴルショークの口と底が狭いおかげで、中に入れた食材は水気を保ちやすく、焦げ付きにくくなる。丸い胴はオーブンの熱を広く分散して吸収するため、より少ない燃料でより多くの加熱ができる。
(23) 前掲の絵本の一節:「農民のくさぶきの木造小屋では、ロシアふうのだんろ、つまりペチカは、巨大な祭壇のようなもので、床面積のほぼ3分の1を占領していました」[40] 44頁、下線部:引用者)。文中の「巨大な祭壇のようなもの」という喩えはふさわしくない。なぜならペチカを至聖所に喩えるのは、教会の至聖所の中で聖体礼儀が執り行なわれるからであって、ペチカが家の中で大きな割合を占めるからではない。この意味において、次の指摘は正しい:「これらの人々[=ロシアの農民]にとってパンは神聖なもので、パンを焼く場所も同様だった。 ロシアのストーブ 『家庭のストーブは、教会の祭壇のようなもの』ロシアの諺(35) ストーブとその中の火は、最大の敬意を払って扱われた。ロシアのストーブを理解するためには、ストーブについての考えをすべて一掃しなければならない」[41] 330−331頁)
(24) 『ロシア式暖炉』[48] 60−61頁)には、ペチカの焚き口の前の空間を、直火の調理台に改良してゆく過程がイラストとともに解説されている。前掲『東スラヴ人の民族学』には、次のような記述がある:農民と労働者の家では「朝、ペチカで調理し、その中で食べ物は終日温かく保たれていた。もし昼間に何かを煮て作る必要があるときは、焚き口で火をおこ(北部と中央部)、ロシア式暖炉の前に取り付けられた調理台(西部)、または屋敷内の夏用ペチカ(ウクライナ・西シベリア南部・中央アジア)で焚き始めた」[23] 307−308頁)
(25) 「富裕層の館」に限定するのは、参考文献W[80] 38頁)の記述に基づく。世界の食文化史における同様の例:「フランス料理と自国の料理両方を料理するため、余裕のある者はそれぞれの料理用に二つの台所をつくった。インドの〔中略〕宮廷は、一八〇〇年には二つの厨房があった」W[75] 332頁)
(26)

モスクワにある「ロシア式暖炉料理レストラン」≪Ухват≫ の公式サイトの宣伝文句:「当店の料理は本格的にペチカでゆっくり蒸し煮される、すなわち6、12、さらには18時間かけて、とろ火で作られる。この不当にも忘れ去られた調理方法によって、食べ物が新しい角度から見えてくる」。ちなみに店名の ухват は、ペチカ用のゴルショーク(壺)を出し入れするための道具(拙論66頁 写真1参照)
公式サイト:https://uhvat.restaurant/(参照:2025.6.1)

 

     〔第X章 参考文献〕  戻る




[1] 中村喜和「土の香りのロシア料理」(『週刊朝日百科 世界の食べもの』第4巻36号「ロシア1」、朝日新聞社、1981年、145−151頁)。
[2] 中村喜和編『イワンのくらし いまむかし ロシア民衆の世界』(成文社、1994年)108−118頁「ロシア食物誌」(中村喜和 執筆)。
[3]

『世界大百科事典』改訂新版 第26巻(平凡社、2007年)443頁「ボルシチ」(中村喜和 執筆)。
☞「ボルシチ」の項目は、執筆者が大竹武夫(初出:『世界大百科事典』第27巻、1958年、15頁)から中村喜和(初出:『平凡社大百科事典』第13巻、1985年、1161頁)に変更され、今日こんにちの改訂新版に至っている。

[4]

〔同上書[3]とほぼ同じ内容の項目は、次の事典[4][5]にも転載された〕
『ロシア・ソ連を知る事典』(平凡社、1989年)557−558頁「ボルシチ」(中村喜和 執筆)。

[5] 『新版 ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)707頁「ボルシチ」(中村喜和 執筆)。
[6] 国際理解にやくだつ NHK地球たべもの大百科13 ロシア ボルシチ』(ポプラ社、2003年)6−7頁「ロシアの赤いスープ『ボルシチ』」(前原政之 執筆)。
[7] 『最新 海外旅行者のための 世界の料理・メニュー辞典』(学習研究社、2001年)301−332頁「ロシアの料理」(秋元里予 執筆)。
[8] 青木ゆり子『世界の郷土料理事典 全世界各国・300地域 料理の作り方を通して知る歴史、文化、宗教の食規定』(誠文堂新光社、2020年)。
[9] ヴィタリ・ユシュマノフ『はじめてでも美味しく作れる ロシア料理』(世界文化社、2021年)。
[10] 森安達也編『民族の世界史10 スラヴ民族と東欧ロシア』(山川出版社、1986年)68−93頁「第T章 4 生業」(伊東一郎 執筆)。
[11] 荒木瑩子『 ロシア料理・レシピとしきたり』(東洋書店、2000年)ユーラシア・ブックレット
[12] 沼野充義・沼野恭子『世界の食文化19 ロシア』(農山漁村文化協会、2006年)。
[13]

沼野充義・望月哲男・池田嘉郎編『ロシア文化事典』(丸善出版、2019年)
(a) 244頁「ボルシチとピロシキ ボルシチという名前」(坂内知子 執筆)。
(b) 241頁「伝統的食材 新大陸からの野菜」(小林清美 執筆)。

[14] 杉野ヒロコ監修『食の文化話題事典』(ぎょうせい、1993年)
234頁「ボルシチの作り方は?」235頁「ビフストロガノフのビフの意味は?」(加藤幸子 執筆)。
[15] 岡田 哲編『世界の味探究事典』(東京堂出版、1997年)。
[16]

岡田 哲編『世界 たべもの起源事典』(東京堂出版、2005年)。
☞ 同上書[16]には、ちくま学芸文庫版『たべもの起源事典 世界編』(筑摩書房、2014年)もある。

[17] オレナ・ブライチェンコ、マルィナ・フルィミッチ、イホル・リリョ、ヴィタリー・レズニチェンコ『ウクライナの料理と歴史』田中裕子訳(小学館、2022年)。
[18] Ковалёв Н.И. Кухня народов России. М., 1993.
[19]

Мартин Груневег (отец Венцеслав): духовник Марины Мнишек. Записки о торговой поездке в Москву в 1584−1585 гг. / Сост. А.Л. Хорошкевич. М., 2013.
〔電子版〕https://inslav.ru/images/stories/pdf/2013_Martin_Gruneveg.pdf (参照:2025.6.1)

[20] Миронов Б.Н. Благосостояние населения и революции в имперской России. XVIII − начало XX века. М., 2012.
[21] Рецепты украинской кухни, которые вы любите. М., 2012.
[22] Титюнник А.И., Новожёнов Ю.М. Советская национальная и зарубежная кухня: учебное пособие. М., 1977.
[23] Этнография восточных славян. Очерки традиционной культуры / Отв. ред. К.В. Чистов. М., 1987.
[24] 『ケンブリッジ 世界の食物史大百科事典』第1巻 祖先の食・世界の食(朝倉書店、2005年)
[25] Очерки русской культуры XVII века. Ч. 1. Материальная культура. Государственный строй / Под ред. А.В. Арциховского. М., 1979.
[26] Народы России. XVIII − начало XX века. СПб., 2014.
[27] Ильиных Н.В., Ройтенберг И.Г. Практическая энциклопедия русской кухни. Челябинск, 2005.
[28] Аношин А. Русское застолье. М., 2004.
[29] Глазкова Е. ≪Борщ≫ в языке и культуре русского народа // Studia Rusycystyczne. Kielce, 2021. T. 29. С. 49−57.
〔電子版〕https://ilij.ujk.edu.pl/studia-rusycystyczne/numery/part_29/6.pdf(参照:2025.6.1)
[30] 辻󠄀原康夫『イラスト図解版 食の歴史を世界地図から読む方法』(河出書房新社、2008年)。
[31] Украинцы / Отв. ред. Н.С. Полищук, А.П. Пономарёв. М., 2000. 242−259頁「民族料理」(Л.Ф. Артюх 執筆)。
[32] Сюткина О.А., Сюткин П.П. Непридуманная история русских продуктов. От Киевской Руси до СССР. М., 2014.
[33] Лаврентьева Л.С., Смирнов Ю.И. Культура русского народа. Обычаи, обряды, занятия, фольклор. СПб., 2004.
[34] Третьякова Т.Н., Сыромятникова Ю.А., Локтева М.С., Первушкина М.Н. Традиции и культура русского быта. Учебное пособие. Челябинск, 2006.
[35] Баня и печь в русской народной традиции / Отв. ред. В.А. Липинская. М., 2004.
[36]

〔前掲書[35]の和訳・抄訳、原典のカラー図版は省略された〕
V.A.リピンスカヤ編『風呂とペチカ ロシアの民衆文化』齋藤君子訳(群像社、2008年)。

[37] 井上紘一「ウクライナの料理」(『週刊朝日百科 世界の食べもの』第4巻37号「ロシア2」、朝日新聞社、1981年、173−178頁)。
[38] Шангина И.И. Русский традиционный быт. Энциклопедический словарь. СПб., 2003.
[39] Русская изба. Иллюстрированная энциклопедия. Внутреннее пространство избы, мебель и убранство избы, домашняя и хозяйственная утварь / Авт.-сост. Д.А. Баранов, О.Г. Баранова, Е.Л. Мадлевская, Н.Н. Соснина, О.М. Фишман, И.И. Шангина. СПб., 1999.
[40] バレンチナ・ラペンコバ、エドワード・ランプトン『シリーズ世界の食生活D ソビエト』横山美智子訳(リブリオ出版、1996年)。
[41] リンダ・チヴィテッロ『食と人の歴史大全 火の発見から現在の料理まで』栗山節子・片柳佐智子訳(柊風舎、2019年)。
[42] Байбурин А.К. Жилище в обрядах и представлениях восточных славян. М., 2005.〔改訂第2版、ЛитРес 電子書籍〕
[43] Глянц М., Пименова М.А., Потапенко В.В. Роль русской печи в жизни восточных славян // Национальные приоритеты России. 2017. . 5 (27). С. 30?36.
〔電子版〕https://cyberleninka.ru/article/n/rol-russkoy-pechi-v-zhizni-vostochnyh-slavyan/viewer(参照:2025.6.1)
[44] Козлов А.А. История печного отопления в России. М.?СПб., 2017.
[45] Рыкова Е.В. Кулинарное искусство России. М., 2010.
[46] Короткова М.В. Застольные и кулинарные традиции. Энциклопедия. М., 2005.
[47] Стрижибикова О. Русская печь. Семья, деревня, счастье. М., 2021.
[48] Федотов Г.Я. Русская печь. М., 2001.
[49] Скачков А. Хорошая русская печь. М., 1925.〔復刻版〕
[50] Дувакин-Комаров Н.Л. Руководство по эксплуатации, обслуживанию и ремонту кирпичных печей. Б. м., 2014.〔ЛитРес 電子書籍〕
[51] 銀城康子・山本正子『絵本 世界の食事18 ロシアのごはん』(農山漁村文化協会、2009年)。
[52] 21世紀研究会編『食の世界地図』(文藝春秋、第7刷2007年)文春新書
[53]

Рабинович М.Г. Очерки материальной культуры русского феодального города. М., 1988.
☞ 筆者は同上書[53]の原本から直接引用した。
〔電子版〕原本の頁数は非表示 http://rusarch.ru/rabinovich4.htm(参照:2025.6.1)

[54] 田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史1 9世紀〜17世紀』(山川出版社、1995年)175−178頁「補説17」(栗生沢猛夫 執筆)。
[55] 伊東一郎編『山川セレクション スラヴ民族の歴史』(山川出版社、2023年)31−53頁「第一章 2 分裂と移住」(伊東一郎 執筆)。
[56] 黛 秋津編『講義 ウクライナの歴史』(山川出版社、2023年)46−70頁「第2講 キエフ・ルーシ ―ロシアとウクライナの分岐点」(三浦清美 執筆)。
[57] 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』(中央公論新社、2022年)中公新書
[58] 外川継男『ロシアとソ連邦』(講談社、1991年)講談社学術文庫
[59] サイモン・アケロイド『ボタニカルイラストで見る 野菜の歴史百科 栽培法から料理まで』内田智穂子訳(原書房、2015年)。
[60] 板木利隆『カラー版 家庭菜園大百科』(家の光協会、2001年)。
[61] ジャン=リュック・トゥラ=ブレイス『イラストで見る 世界の食材文化誌百科』土居佳代子訳(原書房、2019年)。
[62] 『最新園芸大辞典 第8巻 N・O』(誠文堂新光社、1983年)133頁「ニンジン 来歴」(井上頼数・勝又広太郎 執筆)。
[63] 『野菜園芸大百科』第2版 第11巻 ニンジン・ゴボウ・ショウガ(農山漁村文化協会、2004年)11頁「ニンジンの原産と来歴」(伊藤八郎 執筆)。
[64] 『日本大百科全書』第18巻(小学館、1987年)196頁「ニンジン」(田中正武 執筆)。
[65] ブリュノ・ロリウー『中世ヨーロッパ 食の生活史』吉田晴美訳(原書房、2003年)。
[66] Русская кухня. 235 рецептов, 300 иллюстраций. СПб., 2015.
[67]

〔前掲書[66]の和訳〕
『ロシア料理 235種類のレシピ 300枚のイラストレーション』樽見和徳訳(サンクトペテルブルグ、青銅の騎士、2015年)。

 

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