ボルシチの起源と調理法 第W章 古代ローマ起源説について

◇ 第W章 古代ローマ起源説について 〔HTML文書2025.6.1改訂版〕

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   第W章 古代ローマ起源説について

 

 

 「ボルシチは古代ローマで広く普及した料理であった。これは別に驚くほどのことでもない、なぜならビートはボルシチの主要な野菜であり、ビートとともに用いる野菜(タマネギ、キャベツなど)は地中海原産だからである」。これは拙論の第U章で「古代スラヴ語 бърщь ビート⇒ボルシチ語源説」の典拠のひとつに挙げた、В.Б. Перепаденко 編『ボルシチ』U[19] 4頁=図1の冒頭に書かれたもので、○○まるまる食材の原産地がすなわち○○食材を用いた料理の発祥地でもある、という極めて単純な発想に基づいている(ロシア語原文では、ビートではなく「ビートとともに用いる野菜」が地中海原産であるとも読める)。この起源説の真偽を確かめるためには、当時のビートが現在と同じような「色」「かたち」の「根菜類」であったかどうかについて、詳しく検証する必要がある。当然ながら、「二千年前に[古代ローマで]使われた食材は今日私たちが使っているものとは違っていた」[1] 4頁)との認識に立つことが求められよう。言い換えれば、約二千年前の古代ローマでも現在と似たような「料理用ビート」が存在していた、という〈前提〉を証明しなければ、同上説は成立しないことになる。

拙論では、広義の「ビート」のうち、現在の栽培種として @フダンソウ」、A料理用ビート」、B飼料用ビート」、Cサトウダイコン」の4変種を使い分けている。

ボルシチの基本食材となる「ビート(英語単数形 beetは、「ビーツ」(複数形 beetsのほか、「食用ビート」「テーブルビート」「ガーデンビート」「レッドビート」「ビートルート」「火焔菜かえんさい」「珊瑚樹菜さんごじゅな」「渦巻大根うずまきだいこん」「西洋赤蕪せいようあかかぶ」等々と呼ばれている。「デトロイト」は品種名。
それらのうち「食用ビート」の名称は、基本的に上記@Cすべての変種に当てはまるため、ここではとくにボルシチのもとを「料理用ビート」と表記した(飼料用ビートは家畜を通して、またサトウダイコンも砂糖やビート製クワスの原料として、人間の食用となる)。厳密には葉菜類の「フダンソウ」も料理用だが、根菜類の「料理用ビート」とは別名(フダンソウ)であるゆえに、両者を混同することはない。

フダンソウ(不断草・恭菜)」の別名:「唐萵苣(とうぢさ・とうぢしゃ)」「リーフビート」など。「うまい」「スイスチャード」は品種名。
サトウダイコン(砂糖大根)」の別名:「甜菜てんさい」「甘菜かんさい」「砂糖萵苣(さとうぢさ・さとうぢしゃ)」「シュガービート」など。
同一の種でありながら、これほどさまざまな名称を持つ野菜は珍しい。このことがしばしば誤用の原因ともなっている。たとえば、料理用ビートを「甜菜てんさい」または「赤蕪あかかぶ」と呼ぶのは間違い。「甜菜てんさい」はサトウダイコンの別名であり、砂糖の原料となるほか、一部は家畜の餌に活用されるが、そのまま料理の食材とはならない灰汁あくが強く、土臭いため。ただし下記「白いボルシチ」は例外)。「赤蕪あかかぶ」はヒユ科のビートとは全く別の、アブラナ科の野菜であり、中身は白いものが多い。また「大根だいこん」も同じくアブラナ科の野菜であって、ビートの仲間と言うのは誤り。
ロシア語の名称:@ フダンソウ листовая свёкла(原義「葉のビート」、英語 leaf beetまたは мангольд(英語 mangoldA 料理用ビート столовая свёкла(原義「食卓のビート」、英語 table beetB 飼料用ビート кормовая свёкла(原義「飼料のビート」、英語 fodder beetC サトウダイコン сахарная свёкла(原義「砂糖のビート」、英語 sugar beet
ロシア語で красная свёкла(赤いビート)は、料理用ビートを指す。また белая свёкла(白いビート)は、(1) 飼料用ビート、(2) サトウダイコン、(3) 料理用ビートの白い品種、のどれかである。(3)の場合、中身が白色のほか、黄色、橙色、紅白渦巻きなど、いくつかの希少品種が出回っており、それぞれの品種名で呼ばれている。例:жёлтая свёкла(黄色いビート)
主に発酵させた飼料用ビートまたはサトウダイコンを入れて作る、белый борщ(白いボルシチ)のレシピが存在する。例:ウクライナ系の少数民族フツル人の伝統料理 гуцульский белый борщ / ウクライナ語 гуцульський бiлий борщ「フツル風白いボルシチ」。同上のボルシチには、(1)「白いビート」、すなわち飼料用ビートまたはサトウダイコンを入れる、(2) それと一緒に赤い料理用ビートも混ぜて作る、2通りのレシピがある。いずれの場合でも、ボルシチには必ずビートを入れるという条件を満たしているため、これらを「正統的なボルシチ」に分類することができる。

 

 拙論の第V章では、古代ギリシアにおけるビートの利用法(葉は食用・根は医療用)について簡単に触れておいた。ビートがアポロン神殿に「銀製の供え物」として捧げられたことは、参考文献[2] 658頁、V[10] 34頁)以外にも、たとえば『美食家大百科』[3] 214頁)で言及されている:

ビートに関する最初の記述(1)は、紀元前4世紀に遡り、ギリシアの哲人・学者テオフラストスが書き残している。古代ギリシアでは、ビートは高価な供え物として、アポロン神殿に捧げられるほどであった。当時、ビートの根は野菜というよりも薬用植物と見なされたゆえ、通常は ботва(葉と茎)が食用となり、根は医者が治療に使っていた。[3] 214頁)

 この引用文は、インターネットの各種サイトに広まったロシア語の文章と酷似しており、コピーの連鎖によって歪められた情報が流布する悪しき例となっている。なぜなら「ビートをかたどった銀製の供え物」[2]V[10]に対して、ビートの「高価な供え物」[3] 214頁)という表現では、「生野菜のビート」が神殿に供えられた、と曲解されてもおかしくないからである。このような連鎖はいわば負の遺産となって、別の書物に引き継がれてゆく:

Древние греки очень ценили свёклу и приносили её в жертву богу Аполлону
古代ギリシア人はビートを高く評価して、かみアポロンに供え物として捧げた。[4] 41頁=図2

 前掲書[4]はロシアの子供向けの語彙に関する絵本であり、随所にちりばめられたカラー図版のうち、アポロン像と深紅色のビート図2を見る限りでは、ビートの根が生野菜のまま神殿に捧げられた、と若い読者が誤解する恐れがある。同上の図版の〈前提〉となっているのは、二千数百年前も現在と同じ столовая свёкла(料理用ビート)がギリシアで栽培されていた、ということである。

 

図1図2 省略 ⇒ PDF文書 参照

 

 上述のアポロン神殿への供え物(2)に関する情報源は、古代ローマの博物学者、プリニウスの著作『博物誌』(第19巻26章86節)とされている:

さて、デルフォイのアポロン神殿では、ラファヌス [=ダイコン]が他の食物よりずっとすぐれているとされ、黄金でできたラファヌス、銀製のビート、鉛製のカブが奉納されていたというが、これはギリシア人の見栄である。[5] 508頁)

 『博物誌』の和訳[5][6][7]のうち、供え物としての「ビート」[5] 508頁)、「ビートの根」[7] 842頁)と訳された箇所は、前後の文脈大根だいこんかぶ、いずれも根菜類)や金属加工の難易度から見て、ビートの「葉」ではなく、医療用の「根」と解釈したほうがよいだろう(3)。『博物誌』ローブ(Loeb)版のラテン語原典では beta ex argento(直訳「銀から作られたフダンソウ」)、その英語対訳は a silver beetroot(直訳「銀のビートの根」)[8] 476−477頁)

同上書ローブ版、別の箇所(第19巻40章133節)の訳註によれば、"The ancients ate only the leaves and not the root of beet"[8] 506頁)、「注1 昔の人はビートをその根でなく葉を食べた」[7] 852頁)。この場合のビートは、明らかに葉菜類のフダンソウを意味している。それゆえ「ビート」を「フダンソウ」に読み替えたほうが分かりやすい場合もある。たとえばフダンソウの地上部の直径を広げるために、重しをのせる栽培法を述べた箇所(第19巻40章134節):「レタスと同様、色づき始めたとき軽い錘りをのせることによって広げる」[7] 851頁)

プリニウス『博物誌』のロシア語完訳はまだ存在しない。2021年よりロシアの出版社から、ラテン語原典とロシア語対訳のかたちで全訳の刊行が始まった。現在、第5分冊(『博物誌』第8〜9巻)まで上梓された。

 

 プリニウスは『博物誌』編纂に当たり、約4世紀前のテオフラストスの著作『植物誌』をよく参照・引用した。その引用回数は「いちいち数えきれないほど」あるという[6] 466頁)。『植物誌』和訳U[96] U[97]のうち、ギリシア語原文の τεûτλον を、ある版ではただ「テウトロン」と音写して、フダンソウに近い自生種(学名 Beta maritima、和名「ハマフダンソウ」、拙論30頁参照)と解釈する(4)U[96]「索引」11頁)。別の版では、同上の自生種から出た栽培種「フダンソウ」U[97] 42−43頁)と訳している。後者の註釈によれば、「古代ギリシア人が食用植物としてフダンソウを栽培していたのは確かとされる」U[97] 59頁)
 ロシアの植物学者 Б.И. Буренин と В.Ф. Пивоваров[9]、以下Буренин 他と記す)によれば、ビートは当初、葉菜類および薬草として用いられ、「ヒポクラテスの医薬書(紀元前5〜4世紀)には、ビートの葉と根を主要材料とする調合法が十足らず(5)記されている。〔中略〕古代ローマの医者ディオスコリデス(紀元1世紀(6)は、胃の治療や火傷の手当のために、白・黒(7)ビートの根を煮たものを広く使っていた。ビートは『ローマの草』римская трава または『ローマのキャベツ』римская капуста という名称で、フランス、スペイン、スイス、遅れてドイツに広まっていった」[9] 22頁)
 前段の「ローマの草・キャベツ」が示すように、ビートは主に葉菜類(例:フダンソウ)として、ローマ帝国の領土拡大に伴って普及したと考えられる。ただし上掲のヒポクラテスの著作[10]ひもとく限りでは、ビートの葉=食用、根=医療用という厳密な使い分けではなく、医療の場合は葉の部分も幅広く活用していたことが分かる(例:食餌療法、拙論50頁 註(5)参照)。また栽培種のフダンソウのほかに、「野生ビート」も存在した。この野生ビートは近縁の自生種(学名 Beta maritimaと見なされるが、プリニウス『博物誌』(第20巻28章72節)やディオスコリデス『薬物誌』(第4巻16項)には、野生ビートとして「リモニウム」その他の別名も掲げられ、とくに『薬物誌』の和訳[11] 509頁)と研究書[12] 205頁)では、上記の自生種とは異なる学名が2通り書かれている(8)。しかし岸本良彦訳[13−15]はリモニウムを全く別の植物「イソマツ」と同定し、野生ビート説を斥ける[14] 98−99頁、イソマツの属名:Limonium。また E. Biancardi 他(共著 [16]、以下Biancardi 他と記す)も、リモニウムをビートとは「別の種」とする[16] 13頁)。これらの分類に従えば、上記の野生ビートは自生種に相当し、その和名(「ハマフダンソウ」)が示すとおり、明らかに葉菜類であり、当時はまだビートが根菜類として認識されていなかったようである。
 さて前々段で引用した「白・黒ビートの根を煮たもの」[9] 22頁)について、さらに検討を加えてみよう。ここで注意すべきは、「白・黒」は必ずしも「根」の色とは限らないことである。テオフラストス『植物誌』(第7巻4章4節)には、次のような描写がある:

テウトリオン[=前出の「テウトロン」と同じ]の場合でも白い種のほうが黒い種より液汁の味がよく、種子の数が少ない。この白い種をシチリア種と呼ぶ人もいる。U[96] 269頁)

 プリニウス『博物誌』(第19巻40章132節)にも、明らかに上記のテオフラストスから引用したと考えられる箇所がある:

ギリシア人たちは、色によってビートを二種類に区別した。黒いビートと比較的白いビートである。白ビートのほうがすぐれているとされており―種子の数は少ないが―シチリア種と呼ばれている。[5] 522頁)

前掲のアテナイオスも、『食卓の賢人たち』第9巻371の中で、テオフラストスの同上箇所を引用している。この作品の翻訳者は、ギリシア語 seutlon / teutlon(英字表記)に「砂糖大根」の訳語を当てるU[92] 345−346頁)。しかし一般にサトウダイコンは18世紀に飼料用ビートを品種改良して出現したものとされる(拙論31頁参照)。したがってアテナイオスの時代(2世紀ごろ)にはすでにサトウダイコンがあったという確証はない。

 

 再び Буренин 他[9]によれば、テオフラストスを含む古代文書の中で、ビートの根に関する描写は著しく矛盾する点があるため、それらを整理して、@1年生草本、A2年生草本、B葉菜類、に三分すればつじつまが合うという。おそらく当時は葉菜類のフダンソウ、および1年生から2年生に移行する段階の「半根菜類」полукорнеплоды のビートが広まりつつあったと考えられる。たとえば『植物誌』にある「主根しゅこんと何本かの側根そっこん(第7巻2章6節)を葉菜類のビート、「肥大した肉質状の根」(同上)を半根菜類のビートの特徴として捉えれば、その矛盾を解消できるであろう(9)[9] 7−8頁)
 この時代には、葉菜類と半根菜類の混じり合った交雑種が現れたため、前掲の古代文書におけるビートの分類・描写は過渡的なものと見なされる。それゆえ半根菜類のビートがいつ根菜類となって出現したのかを特定するのは難しい(10)。このような移り変わりの過程では、ビートの体系的な描写方法がまだ存在していなかったはずである。言い換えれば、テオフラストスたちによる「白」「黒」の区別は、おそらくビートの「根」ではなく「葉」の色合いに基づくものであり(11)、葉と根をはっきり区別する描写方法は、葉菜類に続いて根菜類のビートが出現した後の時代に確立されたものである[9] 7−8頁)
 これらの指摘を念頭に置いて、上記の『植物誌』や『博物誌』の描写を読み返すと、たしかに色の修飾語は「根」ではなく、「ビート」にかかっていることが分かる(12)。したがって当時の植物・医療・食文化などに関する書物の中で、たとえば「白ビート」(原典・翻訳)という表現が出てきても、それが直ちに後世の変種サトウダイコンのような「白い根のビート」を意味するとは限らず、「白っぽい葉のフダンソウ」かもしれないことに、充分留意すべきであろう。

これはひとつの学説に過ぎない。たとえば前掲の Biancardi 他は、プリニウスが伝える「白/黒」ビート(『博物誌』第19巻40章132節)について、ラテン語「白い candida」「黒い nigra」を、それぞれ「白いを持つ with white roots」「暗緑色の葉を持つ [with] dark green leaves」と解釈したうえで、「白」=「白いを持つビート」、「黒」=「暗緑色の葉を持つビート」と表現しており、「白」を巡っては Буренин 他の学説と対立する[16] 11−12頁)

 

 なお、上述の〈前提〉のうち、ビートの「かたち」に関して一言。拙論30頁では、ビートの祖先は「樹木のように枝分かれした細い根」を持っていたV[10] 34頁)と紹介したが、実際にどのような形状であったのか、いまとなっては想像するほかはない(13)。ここでは参考までに、Буренин 他(1998年)の先行文献である、ロシアの植物学者 В.Т. Красочкин の著作(1971年)から、現在栽培されているビートの根の「分枝度ぶんしど」степень разветвлённости を示す挿絵を掲げておこうV[16] 289頁=図3 この図は、先行文献[17] 135頁所収の挿絵を、後続文献V[16]が模写して受け継いだものである。同じ〈ひとつの種〉に属するビートであっても、じつに多様性に富むかたちの主根と側根を持っていることが一目瞭然であり、まるで〈葉菜類→半根菜類→根菜類〉の変異の過程を物語っているようでもある。たしかに「ビート類は変異に富む」[18] 第7巻259頁)ことがよく分かる。このような「変異性」изменчивость は、根の形状に限って言えば、料理用ビートの品種に最もよく現れるもので、飼料用ビートには比較的少なく、サトウダイコンにはあまり見られないV[16] 289頁)。これまで述べてきた医療用の根のうち、「樹木のように〔中略〕細い根」の分枝度は、おそらく挿絵図3D、半根菜類は同じくCBに相当するものと考えられる。ちなみにテオフラストスがビートの根について「ダイコンのようである(14)(『植物誌』第7巻2章6節、U[96] 263頁と形容したのは、この半根菜類のことかもしれない。

 

図3 省略 ⇒ PDF文書 参照

 

 前掲の В.Т. Красочкин は、「食用となる栽培植物としてのビートの歴史」を7つの時代に分けている。この時代区分は日本語文献[19] 243頁)にも紹介されたが、ここではロシア語原典[17] 79頁)からの拙訳を掲げておこう。同上書では、プリニウス『博物誌』(第19巻26章86節、アポロン神殿への供え物「銀製のビート」)を引用したうえで、この場合のビートは「初期の根菜型」первичные корнеплодные формы すなわち「半根菜類」だと解釈する(同 81−82頁)

(1)野生ビートを食べ物として利用する(太古の昔より)
(2)フダンソウを栽培[植物として]導入する(紀元前2000〜1000年前)
(3)初期の根菜型が出現する(紀元前の最後の世紀)[初期の根菜型=半根菜類 最後の世紀:複数形]
(4)ビートが広く普及する・根菜型が優勢となり始める(中世)
(5)ビートの経済的な価値が高まる・栽培の中心がモスクワ大公国と西ヨーロッパに移る(16〜17世紀)
(6)料理用ビートと飼料用ビートの品種としての分化が完成する・サトウダイコンの出現と進化(18〜19世紀)
(7)ビートが最も重要な栽培植物として認識される・新しい品種が西ヨーロッパからロシア、世界各地に伝播する(19世紀末〜20世紀)[17] 79頁)

 以上のことがらを整理してみれば、冒頭で掲げた「古代ローマ=ボルシチ起源説」の〈前提〉、すなわち現在と同じような料理用ビートが当時も存在していた、という前置きの条件は、いくつかの点でかなり疑わしくなったと言うことができよう。古代ローマでは葉菜類のフダンソウが栽培・調理され、根菜類のビートはようやく出現しつつあったこと、また根の部分は主に薬草として食べられていたこと、さらに葉と根の色に関する描写方法がまだ確立されておらず、「赤い根」と認められるビートはずっと後の時代に品種改良が始まったこと等々、これらすべては同上の起源説に否定的なものばかりである。
 それでは根菜類のビートは、医療用にとどまらず、日常の「料理用」食材として、いつどのように広まっていったのだろうか? この問題については、いくつかの資料が参考になる。まず、テオフラストス(『植物誌』第7巻2章6節)はフダンソウの根が「甘い」ことに着目している:

テウトリオン[=フダンソウ]の根は〔中略〕肉質状で、味は甘く、口あたりがよい。そのため、生のままでも食べる人がいる。U[96] 263頁)

 生の料理用ビートの根を粗くおろしたサラダのレシピは、現在でもよく知られており(15)、古代の人々が「生のまま」フダンソウの根を食べていたとしても不思議ではない。ただしフダンソウを含む広義のビート特有の土臭さ(16)は、生の状態ではじかに伝わるため、それが原因でビートを嫌う人が多いのも事実である(拙論32頁参照)。レベッカ・ラップによれば、ビートは「泥(dirt)のようなにおい」のせいで、アメリカで最も嫌われる食べ物の第7位に入っているという[106] 70−71頁・[108] 54−55頁)。むろんこれは現在の栽培種に対する現代人の反応であり、テオフラストスの時代のビートもそうであった、という証拠にはならない(17)。とはいえ前掲の Буренин 他は、ビートの「根が持つ癖のある味を和らげるために、専ら煮て食べるようになったあとの時代」に、現在の「赤い根」の品種が開発されるようになった[9] 7頁、拙論35頁 註(7)参照)と述べて、ビート特有の好ましくない風味はいにしえにもあったとの前提に立っている。В.И. Буренин は共著[9]とは別の単著論文[22] 9頁)の中でも同様の見解をくり返しており、これは彼の自説と考えてよいだろう。
 いずれにせよ、テオフラストスの記述にもかかわらず、生のビートの根が「甘い」という情報は、プリニウスの『博物誌』には受け継がれていない。ただしプリニウスは根の薬効と処方について詳しく書き留めている(第20巻27−28章)。Biancardi 他はそれをもとに、「柔らかくて甘い変種」が古代ローマに出現したと推測する[16] 12頁)。B. Neelwarne 編著[23] 2頁)によれば、紀元2世紀にはビートの太い根が冬期の糖分補給のために利用されたらしい。しかしその後、ビートの甘い根が再び脚光を浴びるのは、12〜13世紀にヨーロッパ(一説によるとゲルマン諸国(18)で赤い根の料理用ビートが作られたV[17] 137頁)あと、さらに飼料用ビートからサトウダイコンが育種され、甜菜糖てんさいとうの工場生産が始まる19世紀初めまで待たなければならない。それでもビート製の砂糖がヨーロッパ大陸で売り出された直後は、ブリア=サヴァランの『美味礼讃』によれば、「偏狭な人間や無知な手合は、味が悪いとか、甘味が足りないとか、悪く言った。中には毒だと言うものさえあった」[24] 149頁)。プリニウスは『博物誌』の中でビート有害説を紹介しており(拙論50−51頁 註(17)参照)、ビートにまつわる世間の評判はいつの時代も揺れ動いているようである。
 前掲のブリア=サヴァランは、人類の歴史において「かなり長い間〔中略〕生食の時代が続いた後ついに火が発見され」、獣肉を「焼いて食べ」るようになった[25] 88頁)と述べているが、火に耐える調理器具の発明のおかげで、「野菜を煮たり」「ブイヨンや肉汁やゼリー」を作ったりできるようになったことを、「料理術は〔中略〕長足の進歩をした」[25] 93頁)と語るだけで、「煮る」ことの調理上の意義(19)についてはとくに考察していない。ディオスコリデス『薬物誌』の註釈によれば、「ごく最近まで、人類にとって食用になる野菜とはすなわち煮野菜であった」。なぜなら野生またはそれに近い段階の野菜は、ゆでることによって灰汁あくを取ったり柔らかくしたりして、「はじめて食用に適すものになる」からである[11] 274頁「第2巻 訳注」煮野菜(1)
 古代ローマの美食家アピキウスの名を冠する、ラテン語で書かれた(20)『料理書』(和訳 [26][27]には、フダンソウを用いたレシピがいくつか載っている。ミュラ=ヨコタ・宣子の完訳では約10種類のレシピがあり、たとえば @「胃腸のためのつけ合わせ料理」、A「フダンソウ」、B「温前菜」[26] @ 32頁、A 40頁、B 72−73頁)。同上レシピ、千石玲子の抄訳では @「胃によいポタージュ」、A「フダンソウの料理」、B「アントレ」[27] @ 66−68頁、A 79頁、B 120−123頁)

ミュラ=ヨコタ・宣子訳のレシピ@Bには「フダンソウの根」、Aでは「フダンソウの葉肋」が使われる。訳註「フダンソウは主として葉と葉柄が食用とされたが、白色の根は肉厚で、食用としても用いられた」[26] 73−74頁)。千石玲子訳のレシピでは@ABともに「フダンソウ」、つまり葉の部分が食材となる。

プリニウス『博物誌』(第19巻40章133節):「ビート[=フダンソウ]を使うときは、〔中略〕レンズマメやソラマメと一緒に調理する。〔中略〕ビートの味の弱さをカラシの辛味で刺激する」[5] 523頁、下線部:引用者)
この箇所は、アピキウス『料理書』にも一部受け継がれている。
上記のレシピA「フダンソウの料理」:「フダンソウはゆで、からし、油少量、酢を混ぜあわせたソースを添えて、供する」[27] 79頁)。別のレシピ「大麦と豆類のクリーム」:「〈材料〉ヒヨコ豆、レンズ豆、エンドウ豆〔中略〕フダンソウ」[27] 141−142頁、下線部:引用者)

アピキウス『料理書』にはさまざまな異本があり、著者・レシピの数と内容・成立年代なども決して同じではなく、ウィニダリウスによる「抜粋」本も存在した。エウジェニア・サルツァ・プリーナ・リコッティ(以下「リコッティ」と記す)によれば、『料理書』の原型となるものは4世紀末に成立したと考えられる[28] 368頁)。ミュラ=ヨコタ・宣子訳では「4世紀末から5世紀初め」とする[26]「まえがき」xxi頁)。いずれにせよ、ローマ帝国の末期に編纂された料理書ということになる。

 

 筆者が調べた限りでは、アピキウス『料理書』の和訳(ラテン語原典からの直接訳)には、根菜類としての「ビートの根」を用いたレシピは見当たらない。

ミュラ=ヨコタ・宣子訳(ラテン語原典 Milham 版・André 版の完訳):「フダンソウ」「フダンソウの根」「フダンソウの葉肋」[26] 33頁・40頁他)。前掲の千石玲子訳(André 版の抄訳):「フダンソウ」[27]。アピキウス『料理書』の引用文を含む翻訳書のうち、ジャン=フランソワ・ルヴェル『美食の文化史』(フランス語原典)、リコッティ『古代ローマの饗宴』(イタリア語原典)の和訳(『料理書』レシピは重訳に当たる):「ふだん草」[29] 59頁)、「フダンソウ」[28] 414頁)。以下すべて重訳:英語→和訳「ビート」[30] 96頁)「ビーツ」[31] 153頁)「ビーツの根(21)[20] 73頁)、オランダ語→英語→和訳「ビートルート〔赤蕪(22)〕」[32] 363−364頁、オランダ語原典 [33] 218−219頁・英語訳 [34] 212−213頁)、英語→ロシア語訳(23)「свёкла(ビート)[35] 75−76頁)
Николай Горелов 編訳(24):「свёкла(ビート)[36] 19頁他)、「красная свёкла(赤ビート)(同 20頁)、「белая свёкла(白ビート)(同 33頁)、「свекольная ботва(ビートの葉と茎)(同 23頁)

 

 当然ながら、葉菜類の (1)「フダンソウ(=葉)」、(2)「フダンソウの根」、(3) 根菜類の「ビート(=根)」ではそれぞれ食材が異なり、レシピに基づいて作った料理も全く別物となる。『料理書』和訳[26][27]に基づいて、拙論の筆者は、(1)(2)フダンソウ(葉または根)」が正しいと解釈する。(3)「ビート」については、和訳(例:[31][32]の場合は英語 beet / beetroot からの重訳による影響が大きく、そのまま無批判に受け入れることはできない。
 先述のように、初期の根菜型つまり半根菜類のビートは、紀元前の最後の世紀に、遅くとも紀元後の初めには出現したらしい(拙論41頁参照)。しかし当初、その根が主に医療用として使われただけで、日常的にはフダンソウの葉が食卓に供されていた。古代ギリシア・ローマの食生活に詳しい塚田孝雄の著作には、たとえば農夫シミュルスの育てる「広く腕を伸ばすビート」[37] 49頁)が出てくるが、これは明らかにフダンソウを意味する(腕を伸ばす=葉を広げる、リコッティの和訳では「広い葉っぱのフダンソウ」[29] 80頁)、詩『モレトゥム』からの引用。また別の資料、『食の歴史』全3巻[38−40]の中で、古代から中世初期までの野菜品目にフダンソウがあるのに対して、根菜類のビート(25)が登場するのは、東ローマ帝国の古文書(6世紀編纂、10世紀再版の『ゲオポニカ』)とされる[39] 449−450頁〉。この時代は4世紀末から始まる民族大移動と西ローマ帝国の滅亡(476年)を経て、ヨーロッパ全域の地図が書き改められる変革期に当たり、以前と比べてビートに関する記録が乏しく、まるでいっとき途切れているようにさえ思われる(26)
 ジャン=マリー・ペルトによれば、古代ローマではさまざまな種類の野菜が盛んに作られたが、「中世に入ると、そのほとんどが栽培されなくなった。消えずに残ったのは、エンドウマメ〔中略〕、リーキ、キャベツ、フダンソウなどである」V[14] 22頁)。「中世になると、フダンソウは当時いちばんよく食べられていたスープであるポレ(porée)の主要な具となる。そこからフダンソウの異名であるポワレ(poirée)という言葉も生まれた。〔中略〕ついでポワレは青菜いっぱんを意味する言葉になった」(同 90頁、料理用語ポワレ poêler と混同しないこと)。前掲のレベッカ・ラップは、カール大帝(742−814)の荘園令に記された野菜を列挙しながら、「八世紀終わりから九世紀初めには、ビーツは北ヨーロッパで広く栽培されるようになった」と述べている。ここでのビートは、「香味野菜」に分類された「葉を食べるチャード」、つまりフダンソウを指す[20] 73−74頁)。さらに別の研究者によれば、ある菜園のたねの一覧表(イギリス、1360年)にはビートが含まれるが、「ビートは根よりも葉を取るために育てられたと考えられる」[41] 177頁)。このビートは葉を食べるフダンソウと解釈できる。これらの資料を見る限り、古代ローマから中世ヨーロッパに至るまで、根菜類ではなく、葉菜類としてのビート、つまりフダンソウの栽培が伝統的に受け継がれてきたようである。
 それでは今日こんにち見られる根菜類のビートは、どのように育成されてきたのだろうか。すでに述べたように、ビートの根は古代ギリシア・ローマで主に薬として用いられ、さらにローマ帝国軍の遠征とともに、主にヨーロッパ地域で栽培が広まった。したがってその意味では「ローマ人がビートを普及させた」と言ってもよい。R. Phillips と M. Rix は、赤い根のビートを「ローマ人が育成し、実際に中世後期になってもビートの根は『ローマのビート』と呼ばれていた」と述べている[42] 70頁)。言い換えれば、本来は薬用であったビートの根がフダンソウと肩を並べて「常食」野菜の地位を得るまでには、いくつかの紆余曲折を経て長い期間が必要であり、そのためには後世の品種改良を待つほかはなかったのであろう(27)
 前掲の Буренин 他によれば、近世になって根菜類のビートが数多く現れたのは、資本主義と畜産業の発達に伴い、根が太くて収穫量の多い飼料用ビートを育成する必要に迫られたからである[9] 23−24頁)。第V章でも触れたとおり、共通の母種から飼料用ビートと料理用ビートが分岐して、 В.Ф. Пивоваров の説では、12〜13世紀に赤い根のビートが作られたV[17] 137頁)。玉村豊男によれば、この野菜は「ローマ人が北方に伝え」たあと、12世紀頃に根を太らせる品種改良が始まり、「十五世紀には赤い根のビーツがイタリアまで知られるようになった」V[19] 218−219頁)。ロシアの食文化史研究家 Ольга и Павел Сюткины(以下Сюткиныと記す)は、ビートのさまざまな栽培種は15世紀末までにヨーロッパ全域に伝わり、16世紀以降はビートの葉ではなく、根を食用とすることが主流となったと述べている[43] 352頁)。同じようにレベッカ・ラップは、「ローマンビーツ〔中略〕として知られる赤く丸い根のママビーツ(28)は、ヨーロッパでは一六世紀になるまで普及しなかった」、つまり16世紀以降に広まったとの見解を示している[20] 74頁)
 この普及時期について別の資料は、「根が深紅色の品種は16世紀以降のもの」とする[11] 276頁「第2巻 訳注」149-(1)。さらに別の文献によれば、「根が太くて薄い赤色のビートは、1550年ごろに初めて記録され」、現在のような「濃い赤色のビートは、17世紀の中ごろに登場してきた」V[8] 147頁)。「赤くて甘い根のビートは1580年代にイタリアから」イギリスに導入された[44] 113頁)。いっぽう Буренин 他は、イタリアなど南欧の「カブのように太い根を持つ赤ビート」は16世紀半ばに栽培され、さらに「太くて短い、とても甘い根を持つ赤ビート」、すなわち「ローマの赤ビート」римская красная свёкла は著しく変異性に富み、料理用ビート、ひいては飼料用ビートの数多くの品種はこのビートを共通の祖先とする、という学説を紹介している[9] 22−23頁)。これらの資料をもとに、太くて赤い根のビートがヨーロッパ各地で普及した時期については、16〜17世紀とするのが最も妥当であろう。
 これまでの議論を総括してみれば、古代ローマで食卓に供された「ビート」とは、葉菜類のフダンソウであり、ボルシチの必須食材となる根菜類の赤ビートはまだ出現していなかった、と結論づけることができる。それゆえ今日こんにちと似たような料理用ビートがすでに存在していた、という〈前提〉が崩れるため、古代ローマをボルシチの発祥地とする説は、その論拠を欠くものとなる。

古代メソポタミアでビートの煮込み料理が作られていたという説もある。この説を主張する遠藤雅司によれば、「前一七三〇年頃までに」書かれた粘土板には、解読・翻訳の結果、さまざまな料理レシピが記されており[45] 3頁)、そのひとつとして「ビーツ汁(トゥフウ アルートゥ)」(同 106−107頁)があるという。「ビーツの料理といえば、ロシア料理のボルシチが代表的なものになるかと思いますが、本書で世界最古のビーツ料理を知っていただいたことですので、是非ビーツ料理のルーツは古代メソポタミアにあり! と声を大にして周りに語っていきましょう」(同 107頁)。しかしながら、トゥフウは「明確にどんな食材なのか定義されてい」ない(同 106頁)こと、また「ビーツ汁」の再現レシピとカラー写真を見る限り、赤い根のビートが用いられている(同 104−105頁)ことは、大きな弱点となっている。それゆえ古代メソポタミアにも現代と同じ赤ビートがあったとの前提に立つ同上説は、古代ローマ説と全く同じ理由により、確固たる根拠を持つものとは言えない。
ただし粘土板に書かれた2つの単語(「トゥフウ」「アル―トゥ」)が明らかに「フダンソウ」と同定できるのであれば、それが自生種・栽培種のいずれの場合でも、広義のビート、つまりフダンソウを用いた料理の一種として、「世界最古」のレシピとなる可能性は残されている。
同上説が典拠のひとつとしているのは、ジャン・ボテロ『最古の料理』に紹介された粘土板のレシピである。該当箇所の和訳は「ビーツの粥状煮込み」[46] 49頁)。フランス語原典[47] 50頁)では、この箇所の食材名は bette à carde(葉菜類の「フダンソウ」)ではなく、betteraves(根菜類の「料理用ビート」複数形)となっており、フランス語からの和訳「ビーツ」は正確である。けれども約3800年前の古代レシピを解読・翻訳するためには、いま流通している野菜と同じものが当時もあったのかどうか、詳しく検討したうえで、慎重に訳語を決定しなければならない。栽培植物の歴史を考慮に入れるならば、この時期に根の肥大した赤い料理用ビートが出現していた可能性は、かなり低いと言わざるを得ない。
とはいえ「世界最古」とされるレシピを再現する試みは、本の出版や動画配信などで一定の広がりを見せている。たとえば青木ゆり子T[28]のレシピは「ボルシチの元祖のようなラムとビーツのスープ『トゥフ』を、オリジナルに基づきながら日本で手に入る材料に置き換えた」(同 161頁)もので、先行文献[45][46]に倣い、赤ビートを用いる。またYouTubeで料理チャンネルを主宰するマックス・ミラーは、共著[48]の中で、前出「ビーツ汁」と同じ品の再現レシピ「トゥフウ」、つまり「ビーツとラムのシチュー」(同 19−21頁)を公開した。彼は「歴史料理の再現とはひたすら推測を重ねること」であり、「学問的な研究というよりは楽しむためにある」と述べたうえで、再現レシピの「具体的な記述の大部分はぼくの創作だ」(同 10頁)と認めている。

 

 それでは、古代ローマ起源説は成立しないという見地に立ったうえで、ローマ帝国の東西分裂(395年)と時期的に重なる、前掲のアピキウス『料理書』(400年頃成立)に再び戻ってみよう。
 オランダの食文化史研究家パトリック・ファース(以下ファースと記す)は、『古代ローマの食卓』[32]第U部の中で、アピキウス『料理書』のレシピを頻繁に引用している。とりわけ注目されるのは、「ローマ風ボルシチ」という名のレシピである。"De beroemde Russische soepvan rode bieten was bij de Romeinen al in zwang"「赤ビートから作る有名なロシアのスープは、古代ローマ時代にはすでに人気があった」(オランダ語原典 [33] 219頁)と前置きしたあとで、著者はアピキウス「64番」のレシピを引き合いに出し、ラテン語原典とオランダ語対訳を並べながら解説を加えている図4、ラテン語原文は『料理書』校訂本[49] 160頁)と照合し、異同箇所を示した)。以下、和訳を引用する[32] 363−364頁、英語訳からの重訳)

ローマ風ボルシチ
ビートルートのスープはすでに人気があった。
ビートルートのもうひとつの料理法をウァロから引用する。「赤蕪を用意して、汚れをきれいにこすりおとし、少々の塩と油を入れたムルスムのなかで茹でるか、あるいは塩と水と油を入れてそれでスープを作る。このようにして食す。鶏肉を入れたスープにすれば一層おいしい。[閉じ引用符なし](アピキウス 64)
[以下ファースによる解説]水と甘いワインと塩とガラ同然の鶏で煮出し汁を作る。次に、ビートルート4個の皮をむいて煮出し汁に加える。鶏を取りだす。スープが暗赤色になっておいしい味になったら液を濾過して鍋に戻す。しばらくおいて冷ます。お好みしだいで、鶏肉の脂肪分を取り除いて、代わりに少々のオリーブオイルを加えてもよい。ロシア人はしばしばビートルートの汁を発酵させたものを使ってボルシチを作る。おそらくローマ人も、このスープは数日おいたあとのほうが味がよくなるということを発見したであろう。12時間ごとに煮立てて、腐らないようにすること。ぶつ切りにしたビートルートを加えて供する。([32] 363−364頁)

 

図4・図5 省略 ⇒ PDF文書 参照

 

 前段のレシピ(オランダ語→英語訳→和訳 [32]を読めば分かるように、ファースの記述は「古代ローマ=ボルシチ起源説」の出所でどころのひとつと考えられる(オランダ語原典 [33] 219頁、1994年)。アピキウスの料理を現代風にアレンジした S. Grainger(以下グレインジャーと記す)も、ファースの Romeinse borscht を踏襲して(29)、レシピ「64番」(3.2.3)を英語で Roman bortsch と名付けている[50] 40頁、2006年=図5

下記の動画では、古代メソポタミアの粘土板およびアピキウス『料理書』のレシピに基づく、2つのボルシチ(?)が紹介されている。後者については、アピキウス『料理書』ウクライナ語訳(Марта Тимошенко 訳、リヴィウ、アプリオリ出版社、2021年)所収のレシピ Борщ по-римськи(ローマ風ボルシチ)が画面に出てくる。この文献を筆者は入手していないが、動画を見る限りでは、レシピ「64番」Апiцiй, III, 2, 3の食材表は、前掲のグレインジャーによるアレンジをほぼ踏襲したものである(例:ウクライナ語 4 буряки середнього розмiру ビート中型4個、英語 4 medium-sized raw beetroot 生ビート中型4個 =図5参照)
「Iсторiя борщу(ボルシチの歴史)」https://www.youtube.com/watch?v=9Ml4InS1KvY(参照:2025.6.1)

 

アピキウス「64番」(André 版70番)の原レシピは、ミュラ=ヨコタ・宣子訳[26] 33頁)では次のとおり。前掲のファース、グレインジャーによる応用レシピと比較されたい::

「胃腸のためのつけ合わせ料理」4−70 別の作り方 〔別の作り方、ウァッロー@によるビート(フダンソウの根)料理:ウァッローが述べるところによると、フダンソウの根、ただし黒い根Aを用い、根をこすって(汚れを除き)、塩少々と油とともに蜂蜜酒(mulsum)Bの中で煮る。又は、塩を加えた水と油の中で煮て汁を作り、それを飲む。もし、その中でトリを煮ておくと更によい。〕([26] 33頁、@ABは原本の註番号)

 先述のように、アピキウスの原典(和訳 [26]には、フダンソウを食材とするレシピが10種類ほど載っている(「フダンソウの根」67/69/70/175番、「フダンソウの葉肋」97/98/140番、「フダンソウ」174/202/380番)。これらのうち、ファースが「ローマ風ボルシチ」と名付けたレシピは、この「64番」(André 版70番)ひとつに限られる。両者を注意深く読み比べてみれば、ファースによるレシピが現代の料理知識に基づく個人的な解釈であり(30)、ウクライナ起源のボルシチと安易に結び付けたため、本来の目的とすべき〈古代ローマ料理の再現〉とかけ離れてしまったことは明白である。
 第一に、ファースは食材「フダンソウの黒い根」(ラテン語 betacios, sed nigros)を、ボルシチの食材「料理用ビートの赤い根」と取り違えている。古代料理を再現するためには、栽培植物の歴史を詳しく調べることが不可欠であり、いわば綿密な時代考証に基づいて、原レシピに最も近い食材を探し当てなければならない。第二に、この「64番」をファースは現在と同じような「スープ」と思い込み、当時の食文化の中でスープが占めた地位を考慮していない。たしかにロシア料理においてスープは、ザクースカ(前菜)に次ぐ первое блюдо(直訳「第一の皿」)(31)として独立した重要な地位を占めているが、古代ローマの食卓、とりわけアピキウスが属した上流階級の晩餐会において、液体のスープは献立表に入らないほどの脇役的な存在に過ぎなかった。
 アピキウス『料理書』の中で、液状に近いものは各種ソースかピューレが圧倒的に多く、スープと呼べるものは殆ど見当たらない(32)。この「64番」は前掲の千石玲子訳では「胃によいポタージュ」(食材:フダンソウの葉)と名付けられ、便通に効果のある薬のレシピとされている[27] 66−68頁)。しかしミュラ=ヨコタ・宣子は、同上レシピを前菜用に出す「胃腸のためのつけ合わせ料理」であり、ポタージュつまりスープのたぐいではないと解釈する(33)[26] 32頁)。むろん当時もスープはごくふつうの料理として、社会階層の違いを問わず、日常的によく食べられていた。スープ(フランス語 soupe)はもともと「液体をかけたパン切れ」を意味し、「かたくなったパンを楽に食べるための料理で、おそらくパンの歴史と同じくらい古いものであろう」T[8] 321頁)。しかしここで問題となっているのは、ドレスコード(服装規定)としてトーガを身にまとうことが求められる[32] 63頁)、正式の晩餐会のメニューである。アピキウス『料理書』全10巻には、「普通の家庭料理のレシピ」もあれば、「ごちそうのレシピ」も集められ[51] 90頁)、とりわけその第7巻は「贅沢な料理」と名付けられている[26] 105頁)
 現代のイタリア料理では、フルコースの場合、primo piatto(直訳「第一の皿」)としてパスタ、リゾット、スープなどが供される(選択可)。けれども古代ローマでは、先述のように、アピキウス『料理書』が伝える晩餐会のメニューとして、スープは含まれていなかったようである。その理由は、当時の上流階級のあいだで広まっていた、いわゆる「レクチステルニウム(臥宴)[25] 102−103頁・[51] 251−252頁)、すなわち食事用寝椅子(lectus tricliniaris)と呼ばれるベッド[53] 309頁)横臥おうがする食習慣にあったと考えられる。前掲のジャン=フランソワ・ルヴェル(以下ルヴェルと記す)は、「ギリシア人やローマ人が、細かく刻んで〔中略〕肉団子、〔中略〕ピュレにした食べ物を好んだ理由の一つは、食事の際の姿勢に関係がある。寝そべって片ひじをついて食べながら、ナイフでものを切るのはいかにも不都合である」[29] 55頁)と述べている。さらにケイティ・スチュワートは、「ギリシアの臥台[=寝椅子]には〔中略〕低い背もたれがあって、〔中略〕横になった者も必要とあれば両手を使えた。だが、ローマ人のばあいは、臥台の上で終始片肘をついて身体を起こし」ていたので、片手しか使えなかった[54] 27頁)と指摘する(34)。「このため食卓に供される食物の形態も限定され、とくに肉は適当な大きさに切ってから出さねばならなかった」(同 27頁)。当然ながら、熱いスープを手の指で(当時は基本的に素手で食べた)、またはスプーンで容器からすくって飲むことは不便極まりなく、火傷やけどの恐れさえあるため、この種の「厄介なしろもの」はしだいに敬遠されていった(35)。言い換えれば、横になって食べる習慣が決定的要因となって、料理の種類や形状、盛り付けかたを制限したのである(同 25頁)。したがってアピキウス『料理書』に野菜をゆでる記述があっても、それを直ちに野菜スープのレシピと解釈することは早計に過ぎよう。
 ファースは自著の冒頭で、古代ローマの調味料が現代イタリア人の好みに合わないことを例に挙げて、彼らは「先祖から受け継いだ遺産の価値を正しく評価することができない」[32] 2頁)と批判している。そのうえで、人間の経験に基づく「味の好み」が失われてしまったのであれば、もう一度作って味わってみること、つまりローマ料理の再現と試食を通して、忘れ去られた古代食を「再評価」すべきではないか、と提言する(同 2頁)。このようにファースは、人間の「味の好み」はいったん失われてもよみがえる可能性があると見なしており、ルヴェルによる次の主張とは真っ向から対立する。ルヴェルは、「かつてあまねく普及していた味、香り、料理法、調味料」などは、時代とともに「絶えず変化」するものであり[29] 8頁)、それらの「再現はまず不可能」(同 10頁) との見地に立ったうえで、さまざまな料理書や文学作品を渉猟しながら、時代の流れに埋もれた「料理の雰囲気を蘇らせ」ることを目指した(同 267頁)。ルヴェルは古代食の再現の試みを頭ごなしに否定するのではなく、料理の歴史を文献学的に深く丹念に掘り下げて、「言葉の背後に隠れている事実」を知る(同 267頁)ことの重要性を訴えたかったのであろう。
 拙論の筆者は、いくつかの事例(36)に基づいて、ルヴェルの見解のほうが正しいと判断する。それゆえファースによるアピキウス『料理書』の個人的な解釈、とりわけウクライナ起源のボルシチは「古代ローマ時代にはすでに人気があった」、「数日おいたほうが美味しくなることをローマ人は発見した」[32]などという記述は、古代と現代を短絡的に結び付けているため、説得力を失ってしまう。なぜなら彼の主張は、古代においても現代と同じような食材(例:ビート)と調理法、味覚と嗜好があったとの前提に立つものであり、これまで見てきた多くの資料に基づく確証が得られない以上、今と昔を混同した「時代錯誤アナクロニズム」との批判を免れないであろう。(ファースによるレシピ解説のうち、食中毒の危険性について:拙論52頁 註(30)参照)

 

 

     〔第W章 註〕 参考文献 戻る

(1)

拙論の第V章で述べたように、ビート(フダンソウ)の栽培に関する最古の記録が残っているは、紀元前8世紀のバビロニアとされるV[7] 380頁)。「前八〇〇年ごろ、バビロニア王朝の庭園でビートが栽培されていたとの記録が残されている。この作物はおそらく、ベータ・ヴルガリスの一つの亜種である、現在のフダンソウ(亜種シクラ cicla、図2)に似たものであろう」V[6] 258頁)。後掲の В.Т. Красочкин は、より具体的に「バビロンの王メロダク・バルアダン」の時代の記録とする[17] 80頁、この王の名前は旧約聖書に出てくる。ちなみに日本の製糖企業の社史にも、「バビロン」についてごく簡単な記述がある(例:[55] 本史1頁)。ただし「この植物の最も古い記載は紀元前425年頃の ARISTOPHANES によるもの」とする説もある[56] 2頁)
さらに遡った時代のビート栽培については、推測の域を出ない(拙論41−42頁 7つの時代区分 参照)。ある説によれば、フダンソウは「紀元前1000年くらいにはすでにシチリア島で栽培されていたという」[57] 330頁)。後掲の Biancardi 他は、紀元前2000年頃のベニハサンの壁画などをもとに、ビートの栽培種は古代エジプトにもあったらしいとする説を唱えている[16] 7−9頁)。しかしこの説について В.Т. Красочкин は、確証はないとして否定する[17] 80頁)。また北海道大学農学部・遺伝子制御学研究室(久保友彦教授)のサイトでは、次のような指摘がなされている:
(5.フダンソウの歴史と伝播)「古代エジプトにおいて栽培化が行われたという説に対しては、支持するデータが無い上に強い反対意見があり〔中略〕、採用する理由がない」。
http://lab.agr.hokudai.ac.jp/ikushu/gelab/beet-world/tameninarukamo.html(参照:2025.6.1)

(2)

デルフォイのアポロン神殿のテラスには「記念碑や奉納品が何百と林立して」いた。「ほとんどが大理石の台座に載った彫刻品だが、これらの奉納品は一つとして近代まで残っているものはない」[58] 191頁)。同上書277頁には、「アポロンへの供犠」と題するアッティカの赤像式陶器(紀元前5世紀、ルーブル美術館所蔵)の白黒写真が掲載され、供え物を祭司が素手でつかむ姿が見える。
この図版のカラー写真はインターネットで閲覧できる:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bell-krater_sacrifice_Pothos_Painter_Louvre_G496.jpg(参照:2025.6.1)

(3) H. Phillips は、『栽培野菜の歴史』2巻本(初版1822年)、第1巻「ビート(BEET)」の章の中で、プリニウスを引用しながら、ギリシア人たちはビートの「根root」を「銀製品の上にのせてon silver)」アポロン神殿に奉納した、と述べている[59] 79頁)。これに対してレベッカ・ラップは、「古代ギリシャでチャードは銀の皿にのせてアポロン神に捧げられ」た[20] 72頁)、すなわち葉菜類のチャード[=フダンソウ]が「銀の皿」に盛られていたと解釈する。ただし H. Phillips とレベッカ・ラップはともに、アポロン神殿に奉納されたのは「銀製のビート」[5] 508頁)ではなく、その実物(生野菜)であるとする点では一致している。なお、拙論の第U章で引用したロシア語文献U[43] 137頁、U[44] 160頁)には、アポロン神に「ビートが銀製の皿にのせて捧げられた」とあって、「ビート」は H. Phillips と、「銀製の皿」はレベッカ・ラップと共通している。
(4) ただし同じ編訳者による『ヒポクラテス全集』[10]では、τεûτλον を「テウトロン」ではなく「フダンソウ」と訳している。
(5) 和訳『ヒポクラテス全集』[10] 第3巻「事項索引」18頁)によれば、『全集』本文に出てくる「フダンソウ」の箇所は40余り。それらの大半は、日常的に食べる「葉」を治療に役立てるもので、「根」の処方はごく僅かである(例:便通改善、同上書第2巻217頁)。なお、和訳[10]の索引が示す箇所を調べる限りでは、ヒポクラテスはフダンソウを2種類の色によって区別していない。
(6) ロシア語原文 I в. до н. э.「紀元1世紀」[9] 22頁)は誤りのため、「紀元1世紀」に訂正した。
(7) ディオスコリデス『薬物誌』第2巻149(岸本良彦訳:第2巻123項)「フダンソウ」には、「黒っぽい種類」と「白っぽい種類」の薬効に関する短い記述[11] 194頁)がある。それゆえロシア語原文 сваренные корни белой и красной свёклы「白・赤ビートの根を煮たもの」[9] 22頁)のうち、「赤ビート」を「黒ビート」に訂正した。
(8) ディオスコリデス『薬物誌』第4巻16(岸本良彦訳も同じ)には、写生画の下に「野原〔湿原〕に生えている」野草で「フダンソウに似た葉をもっている」という原著者の説明がある[11] 509頁)。しかし和訳の底本(R.T. Gunther 校訂、1934年)の編纂者は、後世の解釈として「Beta sylvestris アカザ科フダンソウ属の植物」と「Statice limonium イソマツ科イソマツ属の植物」を併記するだけで、どちらかに特定していない[11] 509頁)
(9) テオフラストス『植物誌』(第7巻2章6節)のビートの根に関する描写は、特定の箇所だけを切り離して読むと、たしかに矛盾しているように見える:「テウトリオンの根は一本だけで、長く、太く、まっすぐで、ダイコンのようである。太い根をわきへ出しているが、それは二本のこともあれば、三本のこともあり、一本だけのこともある」U[96] 263頁)
(10) Буренин 他は、根菜類のビートが「紀元後の初めまでに出現したと大半の研究者たちは見なす」[9] 22頁)と述べながら、みずからは時期の特定を避けている。D. Zohary、M. Hopf と E. Weiss によれば、紀元前1世紀には地中海沿岸で、葉菜類のフダンソウと、たぶん(probably)根菜類のビートが栽培されていた[60] 160頁)。これに対して Biancardi 他は、巻末のビート年表(全2頁)の中で garden (red) beet(「料理用(赤)ビート」)は紀元前250年頃に広まったとする[16] 259頁)
(11) この箇所は Буренин 他[9] 8頁)の見解であるが、拙論の筆者は、ヒポクラテスやテオフラストスの時代には、各種ビートの中でも葉菜類のフダンソウが主流を占めており、色の修飾語はおのずと「食用・医療用の葉」にかかっていた、と解釈する。
(12) テオフラストス『植物誌』ロシア語訳[61] 186頁):Белая свёкла вкуснее чёрной и даёт меньше семян 「白ビートは黒ビートよりも美味しく、種子は少ない」。同上書は τεûτλον をビートの自生種 свёкла морская(学名 Beta maritimaと解釈している[61]「植物名索引」520頁)
(13) ディオスコリデス『薬物誌』の和訳[11]には、6世紀の初めに「あるビザンチンの画家」(「序」ii頁)が描いたフダンソウの植物画が載っている(「第2巻149」194頁)
(14) テオフラストス『植物誌』(第7巻2章5節)のダイコンに関する記述:「野菜類の多くは太い根を一本だけもっており、これが地中深くのびる。〔中略〕ダイコンやカブでは、ただ一本の根から小さな根がわきへ分かれ出ている」U[96] 263頁)
(15) レシピの例:Салат из сырой свёклы с черносливом и орехами「生ビートのサラダ プルーンと胡桃入り」[62] 7頁)
(16)

フダンソウの土臭さについて:@「独特の土臭さが好まれず、あまり普及していない」[63] 148頁)A「独特の土臭さもあって、現在はあまり栽培されていないが、ほうれんそうの代用とされることがある」[27] 89頁)
ビートの土臭さについて: @「特有の泥くさいにおいと味を愛して、昔からボルシチの中へ必ず加えることになっています」[64] 7頁)A「アクが強く土臭いうえ、とても硬いので、しっかりした下処理が必要です」[65] 56頁)

(17)

この土臭さとは別の理由により、ビートは古代ローマでも「有害」と見なされ、それを食べることが敬遠されていたことを、プリニウスは次のように記している(『博物誌』第19巻40章133節):「医者たちは、ビートは〔中略〕有害だと判断したが、そのせいで食卓で出されたビートを味わうことに誰もが不安を抱くことさえある」[5] 523頁)。ディオスコリデスは「硝石を含む有害な液汁」を理由に挙げている(『薬物誌』第2巻149項「フダンソウ」、[11] 194頁。同じ項目の岸本良彦訳:「ソーダ分を含んでいるので液汁は有害である」[14] 24頁)。この「液汁」は「植物細胞中に含有される、シュウ酸カルシウムをさすものと考えられる」[11] 277頁「第2巻 訳注」149-(2))
なお、フダンソウの現在の栽培種は「シュウ酸を含まないことや耐暑性が高いことから、ホウレンソウの育種素材として注目されている」[57] 331頁)

(18) ビートの「根を太らせるための品種改良がはじまったのは、十二世紀頃のゲルマン系諸国であった。きっと、根を食べてみたらびっくりするほど甘かったので、根菜にしようと思ったのだろう」V[19] 219頁)。これに関連して、ジェイン・グリグソンは「ビーツは中世のドイツの園芸家が開発したといわれている」と述べて、中央ヨーロッパ説を支持する[66] 84頁)。別の文献によれば、「野菜として食べるテーブルビートは16世紀にドイツで初めて栽培した。これをフランスで広めるために、1600年にオリヴィエ・ド・セールは『真紅の大きめの根で味がよい』と書いて宣伝している」T[8] 505頁)
(19) 「古代ローマ人は、直接火にあてる『あぶり焼』は最も原始的な調理法で、『茹でる』ことは進歩的な方法と考えていた。〔中略〕ママでるとアク・くさみ・塩けをとることが出来るとすでにローマ人は知っていた」[67] 74頁)。同上論文は、アピキウスの和訳[26]を「全面的に引用・参考にしている」[67] 63頁)
(20) ローマ料理は基本的にギリシア料理を受け継いだものであり、「ラテン語による料理文献は、ギリシャ語文献のラテン語訳と考えてもよい」という説を、ミュラ=ヨコタ・宣子は紹介している[26]「まえがき」V頁)。しかしラテン語はローマ帝国の公用語であったことを考慮すれば、アピキウスの原典がラテン語で書かれたという事実に何の変わりもない。
(21) アピキウスは「ビーツの根のレシピをふたつ書き残している」[20] 73頁)。「ビーツの根」の英語原文は beetroot[21] 57頁)
(22) ヒユ科(旧 アカザ科)のビートを「赤蕪」[32] 363−364頁)と訳すのは誤り。赤蕪あかかぶはアブラナ科に属し、一般的に赤いのは皮だけで中身は白い。たとえば通訳ガイド参考書[68] 12頁)、「赤蕪」の項目には、語義「ビートの食用根」と書かれているが、このような誤用は避けるべきである。
(23) A. Soyer 著 "The Pantropheon" ロシア語訳[35] 75−76頁)には、アピキウスの『料理書』から свёкла(ビート)を食材とするレシピが3つ引用されている(上記の註(21)では「ふたつ」)
(24) この翻訳書[36]の前半は、アピキウス『料理書』のロシア語訳(ラテン語原典からの完訳)が収められている。Н.С. Горелов は本書の編集中に34歳で急逝し、遺稿が没後出版された。
(25) 「畑や菜園の耕作に関する規則集」である『ゲオポニカ』には、コンスタンティノープルで生育する農産物が列挙され、フダンソウ(5月播種)と並んで「テンサイ」(2・5月播種)、「野生のテンサイ」(9月播種)もあった[39] 449−450頁)。なお、同上書は「テンサイ」という訳語を用いているが、日本語の「甜菜てんさい」は18世紀に育成されたサトウダイコンを意味するため、6〜10世紀にはまだ存在しなかったはずである。それゆえ拙論44頁の本文では「根菜類のビート」と言い換えた。
(26)

Biancardi 他の巻末にあるビート年表には、紀元「78年ごろ」以降、「1000〜1300年」または「中世」に至るまでのあいだ、ビートに関する特記事項が全く載っていない[16] 259頁)。後掲のケイティ・スチュワートは、「ローマ帝国の崩壊」が洗練されたローマ文化の継承を途絶えさせ、その中には料理も含まれるとして、「料理の技術が復活してくるまでには、何百年もの年月を要した」と指摘する[54] 54−55頁)。前掲のルヴェルは、「中世の料理が古代の水準に完全に追いつくのは十三世紀も終わり頃」だと述べて、同上の指摘をおおむね支持している[29] 107頁)
このような長い空白の期間は、単に記録が残っていないだけかもしれないが、栽培植物の歴史においても起こり得るものであろう。たとえば古代ローマで珍重され、アピキウス『料理書』にも調理法が載っているアスパラガスの「情報」は、「ゲルマン民族の大移動により」ヨーロッパでは「ぷっつり途絶えてしまった」。その後「どうやらアラブ人がスペインにもち込み、そこからフランスに伝わったらしい」アスパラガスの栽培について、パリ周辺で「ふたたび話題にのぼるようになったのは一三〇〇年ごろ」であったという[69] 728頁)。同様のことがらをレベッカ・ラップも述べている[20] 23−25頁)

(27) ビートは「紀元前1000年ころからヨーロッパで薬用として栽培され、2〜3世紀からは食用とされたが、野菜用に普及したのは中世からという」[70] 785頁)
(28) 「赤く丸い根の赤ビーツ」の英語原文は the bulbous bright red beetroot(直訳「太くて鮮やかな赤色のビートの根」、[21] 58頁
(29) グレインジャーは自著の巻末に、参考文献のひとつとして、ファース『古代ローマの食卓』英語訳[34]を掲げている[50] 123頁)
(30)

同上のグレインジャーは、共著の中で「古代食の再現」は「個人的な解釈」によるものだと認めている:「古代の食べ物をつくるにあたっては、まず『どんな味だったかどうしてわかるの?』という疑問が浮かびます。答えは誰にもわかりません。〔中略〕ですからこの本の中のレシピは、二五〇〇年も前の料理を、個人的な解釈によって再現したものです」[71] 11頁)
イタリアの料理研究家 I. Gozzini Giacosa は、ビートを beet greens(ビートの「葉」の部分)と見なしたうえで、アピキウス「64番」(André 版70番)を kale soup(「ケールのスープ」、[72] 83−84頁と名付けている。しかしラテン語原典に食材の「ケール」は見当たらず、ファースやグレインジャーがこのレシピから「ローマ風ボルシチ」を導き出したと同じように、かなり恣意的で飛躍した解釈と言わざるを得ない。
なお、ファースによる「ローマ風ボルシチ」のレシピ解説のうち、スープを「12時間ごとに煮立てて、腐らないようにする」[32] 363頁)方法は、彼の個人的な解釈とはいえ、食品衛生上好ましくなく、細菌性食中毒の原因ともなりかねない。なぜならスープを煮たあと冷めるまでの過程で、病原菌の大半を占める中温細菌ちゅうおんさいきんが増殖しやすくなり(適温20〜45℃)、また細菌が出す毒素には強い耐熱性を持つものもあって、食品を再び加熱しても不活化されにくいからである[73] 746頁・831頁)

(31)

ロシア料理のフルコースは、パンや飲み物は別として、ザクースカ(前菜)・第一の皿(スープ)・第二の皿(メインディッシュ)・第三の皿(デザート)の4つから成る。ロシア語で первое блюдо(第一の皿)、略してпервое(第一の)は「スープ」を意味する。シチーやボルシチを始めとして、スープは正餐に必要不可欠なものであり、その種類も豊富である。
後述のように、イタリア料理では「第一の皿」としてパスタ、リゾット、スープなどが供される。それらの中からひとつ、または複数のしなを選ぶことができる。言い換えれば、ロシア料理やフランス料理のように、スープが単独で正餐の一部となっているのではない。つまり、イタリア料理におけるスープの地位は、相対的に低いと言えよう。これは単なる憶測に過ぎないが、古代ローマの饗宴ではスープが献立表に含まれなかったことが、現代のイタリア料理にも影響を及ぼしているのだろうか。

(32)

前掲のジャネット・クラークソンによれば、『アキピママウスの料理帖』には「すでに何種類もの『スープ』があったと記されている」U[54] 33頁)。この説を支持するものとして、前掲のファース、グレインジャー、I. Gozzini Giacosa、千石玲子訳などがある。そのほかにも、たとえばアピキウスのレシピを抜粋した解説書[31] 英語からの重訳)には、「豆のスープ・ミネストローネ風」(同 43頁)と「レタスの冷たいスープ」(同 62頁)が載っている。また同上書の著者が別の本で「現代風に再現した」ものとして、「バイアエのシーフード・シチュー〔中略〕海の幸を使ったコク深いスープ風シチュー」と題する「アピキウスのレシピ」が紹介されている[74] 46−47頁)。さらにレイチェル・ローダンの著作[75] 90−91頁)にも、古代ローマの晩餐会の「メインコース」として「鶏肉のシチュー」がひとつだけ挙げられている。ただし同上書はファース『古代ローマの食卓』英語訳[34])とグレインジャーの著作[50])を巻末(「参考文献」33頁・37頁)に掲げており、「鶏肉のシチュー」はファースの解釈による「ローマ風ボルシチ」を言い換えた可能性もある。
これに対して、拙論の筆者は次のように指摘したい。
@ アピキウス『料理書』約五百のレシピ(ラテン語校訂本によって数は異なる)のうち、「○○スープ(ポタージュ)」という訳語は、翻訳者の解釈によって加えられたものであり、その数もごく僅かしかない。
A「ローマ風ボルシチ」の例が示すとおり、時代錯誤に陥った解釈もある。
B ラテン語原典⇒英語訳⇒和訳、つまり重訳の場合、英語底本には「スープ」という訳語が無くても、それを「スープ」と和訳したため、重訳の結果として「スープ」のレシピ数が増えることもある。
Bの例:上記の料理名「レタスの冷たいスープ」[31] 62頁)は、ラテン語原典から英語訳を介した和訳(重訳)であり、その英語底本では ANOTHER MASHED VEGETABLE ALITER OLUS MOLLE [EX LACTUCIS][76] 85頁)と訳されている。別の校訂本の英語対訳では Another vegetable mash recipe made with lettuce leaves[48] 169頁)。いずれの英語訳も、その料理名は「すり潰された野菜」「野菜のすり潰し」を意味しており、そこから「スープ」を訳出することはできない。

(33) ミュラ=ヨコタ・宣子によれば、アピキウス『料理書』第3巻「菜園の庭師」(U)のフダンソウ・セロリなどの料理は「必ずしも、汁を飲む物ばかりではない。〔中略〕ギリシャ・ローマ時代には所謂スープは知られていなかった」。それゆえラテン語 pulmentarium の「本来の意味をとって、主食(粥、パン)につけ合わせて食べる料理と解釈した」[26] 32頁)
(34)

前掲のブリア=サヴァランは、「アンキュビタシオン(横臥体位)」の姿勢で飲み食いする習慣に強い疑問を投げかけている[25] 102−104頁、[52] 251−253頁)。とはいえ、「気楽で行儀の悪い姿」[74] 45頁)のテーブルマナーは、当時「上品な座り方」[51] 88頁)、「上品な作法」[77] 47頁)とされて、「当時の常識だった」[74] 45頁)のである。たしかに「今日の見方からすれば居心地よくないように思われ」て[53] 385頁)、「健康的であったかどうかは疑わしいにしても、ローマ人はこのギリシャの慣習にあっという間に徹底してなじんでしまった」(同 309−310頁)。なぜなら、「まさしく寝そべるこの姿勢こそ、彼らにはストレスのない楽しいくつろぎと思われ」たからである(同 385頁)
ちなみにバーナード・ルドフスキーは、この食習慣の視点から「最後の晩餐」における会食者の「横になる」姿勢について考察している[78] 22−33頁)。福音書の記事によれば、晩餐の席で「弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた」(ヨハネ13:23、新改訳2017)

(35) これに対して高平鳴海は、古代ローマの晩餐会には汁物(スープ)が出されていたと解釈する:「ローマ人も基本はギリシャ人のように素手で食べ、他は汁物用のスプーンを使う程度だった」[79] 68頁)。「多くの料理は、〔中略〕高価な大皿に盛られ、列席者が取り分けて食べた。汁物は鍋に入ったまま出されてスプーンを用いた」(同 69頁)。ただしスプーン使用に関する典拠は示されていない。なお、「ローマの平民や貧民の夕食」と題する項目では、「貧民の平日の夕食メニュー」として、「ヒヨコマメ、ヒラマメ、エンドウマメなどを煮たスープ」が挙げられている(同 70−71頁)。別の参考書には、「庶民の味」として「エンドウ豆のスープ〔中略〕家庭はもちろん、屋台などでも供された豆のスープ」のレシピがカラー写真付きで載っている[74] 47頁)
(36)

人間の味覚が時代とともに変わることを示す例を挙げてみよう。モンゴル支配以前のロシアでは、タマネギとニンニクは食卓に欠かせない必需品で、現在とは比較できないほど大量に食べられていたU[13] 355頁、U[14] 323頁)。とくにロシア北部では栽培可能な野菜が乏しく、タマネギとニンニクはその数少ない品目に入っていた(拙論63頁参照)。この嗜好はモスクワ大公国時代になっても変わることなく、「ロシア人が好み、価値を置く果実の王者は玉葱とニンニク」であった。「彼らは普通、ニンニクと玉葱を使って調理するので、クレムリン内にある大公の宮殿の豪華な部屋を含め、彼らの部屋という部屋、家という家すべてが、われわれドイツ人にとっては不快な臭いを発している」[80] 23頁)。外国人は悪臭のするウハー(ロシア風 魚スープ)を食べられなかったが、それは魚と水のほか、ときおりニンニクだけが入っていたからである[81] 88頁)。17世紀半ばのイギリス大使館の記録によれば、タマネギとニンニクへの偏愛のせいで「目よりも鼻でロシア人を見分けることができた」[82] 179頁)。これに関連して А.В. Павловская は、現代ロシアでもタマネギとニンニクへの「忠誠心」は保たれており、「それらを調理に加えるだけでなく、塩や黒パンとともに自然なかたちで、特別なごちそうとして食べられている」と主張する[83] 459頁)。しかしながら「目よりも鼻でロシア人を見分けられる」ほど、タマネギとニンニクがいまも大量に消費されているわけではない。このような嗜好はすでに廃れてしまい、口臭の主な原因は別のもの(例:喫煙)に移ったと言えるであろう。
前掲書[81]による別の例:「中世ロシアでは料理を作るときに塩を入れなかった。これはむろん、ルーシの時代に無塩食療法が守られていたわけではない。塩を始めとして、より裕福な家では胡椒や酢がいつも食卓に並べられ、出された料理に各自が好みに応じて味を付けた。きっと私たちの先祖は、調理中に塩を入れた場合と、調理後に塩を振りかけた場合の味の違いが分からなかったのだろう」(同 169−170頁)

 

     〔第W章 参考文献〕  戻る

[1] ブリジット・ルプレトル『古代ローマの料理と食文化 現代に蘇るレシピ35種』海田芙柚悸訳(三恵社、2022年)。
[2]

Лосев А.Ф. Мифология греков и римлян. М., 1996.
☞ 筆者は同上書[2]の原本から直接引用した。
〔電子版〕http://www.sno.pro1.ru/lib/losev2/28.htm(参照:2025.6.1)

[3] Большая энциклопедия гастронома. М., 2012.
[4] Лаврова С. Занимательная лексика. М., 2015.
[5]

〔『博物誌』全37巻のうち第12〜19巻(翻訳書では植物篇 第T〜[章表記)、ラテン語原典からの和訳〕
『プリニウス博物誌 植物篇〈新装版〉』大槻真一郎編(八坂書房、2009年)。

[6]

〔『博物誌』全37巻のうち第20〜27巻(翻訳書では植物薬剤篇 第T〜[章表記)、ラテン語原典からの和訳〕
『プリニウス博物誌 植物薬剤篇〈新装版〉』大槻真一郎編(八坂書房、2009年)。

[7]

〔『博物誌』全37巻の完訳、第12〜25巻、ただしラテン語原典の英語訳からの重訳、3巻本・第U巻〕
『プリニウスの博物誌 U』中野定雄・中野里美・中野美代訳(雄山閣、1986年)。
☞ 同上書[7]には、縮刷版6巻本(雄山閣、2012年、縮刷第2版2021年)もある。

[8]

〔『博物誌』全37巻の完訳、第17〜19巻、ラテン語原典と英語対訳、ローブ古典叢書、10巻本・第X巻〕
Pliny. Natural History. Vol. V, Lib. XVII−XIX. Cambridge, MA, 1971.

[9] Буренин В.И., Пивоваров В.Ф. Свёкла. СПб., 1998.
[10] 『新訂 ヒポクラテス全集』大槻真一郎編、3巻本(エンタプライズ、1997年)。
[11]

〔英語訳からの重訳〕
『ディオスコリデスの薬物誌』鷲谷いづみ訳(エンタプライズ、1983年)。

[12] 大槻真一郎『ディオスコリデス研究』(エンタプライズ、1983年)。
[13]

[13][14][15] ギリシア語原典からの直接訳〕
岸本良彦「ディオスコリデス『薬物誌』訳注 前書き 第1巻」(明治薬科大学研究紀要『人文科学・社会科学』第39号、2009年)9−52頁。

[14] 岸本良彦「ディオスコリデス『薬物誌』第2巻 第3巻 第4巻」(明治薬科大学研究紀要『人文科学・社会科学』第40号、2010年)1−149頁。
[15] 岸本良彦「ディオスコリデス『薬物誌』全5巻序文 第1巻(修正版)第5巻」(明治薬科大学研究紀要『人文科学・社会科学』第41号、2011年)1−88頁。
[16] Biancardi E., Panella L.W., Lewellen R.T. Beta maritima. The Origin of Beets. New York, 2012.
[17]

Культурная флора СССР. Т. 19. Корнеплодные растения / Ред. В.Т. Красочкин. Л., 1971.
〔電子版〕https://i.twirpx.link/file/1125677/(参照:2025.6.1)

[18] 朝日百科 植物の世界』第7巻(朝日新聞社、1997年)259頁。
[19] 『野菜園芸大百科』第2版 第20巻 特産野菜70種(農山漁村文化協会、2004年)243−246頁「テーブルビート」(芹澤正和 執筆)。
[20] レベッカ・ラップ『ニンジンでトロイア戦争に勝つ方法 上 世界を変えた20の野菜の歴史』緒川久美子訳(原書房、2015年)。
[21]

〔前掲書[20]U[83]の英語原典〕
Rupp R. How Carrots Won the Trojan War. Curious (but True) Stories of Common Vegetables. North Adams, 2011.

[22] Буренин В.И. Современная систематика рода Beta L. // Энциклопедия рода Beta. Биология, генетика и селекция свёклы. Сб. науч. тр. / Отв. ред. С.И. Малецкий. Новосибирск, 2010. С. 9−14.
[23] Neelwarne B. ed. Red Beet Biotechnology. Food and Pharmaceutical Applications. New York, 2013.
[24] ブリア-サヴァラン『美味礼讃(上)』関根秀雄・戸部松実訳(岩波書店、1967年)岩波文庫
[25] 同上『美味礼讃(下)』(岩波書店、1967年)岩波文庫
[26] 『アピーキウス 古代ローマの料理書』ミュラ=ヨコタ・宣子訳(三省堂、1987年)。
[27] アピキウス『古代ローマの調理ノート』千石玲子訳(小学館、1997年)。
[28]

エウジェニア・サルツァ・プリーナ・リコッティ『古代ローマの饗宴』武谷なおみ訳(平凡社、1991年)。
☞ 同上書[28]には、講談社学術文庫(講談社、2011年)もある。

[29] ジャン=フランソワ・ルヴェル『美食の文化史 ヨーロッパにおける味覚の変遷』福永淑子・鈴木 晶訳(筑摩書房、1989年)。
[30] スージー・ワード他『世界食文化図鑑』(東洋書林、2003年)。
[31] 上田和子『おいしい古代ローマ物語 アピキウスの料理帖』(原書房、2001年)。
[32]

〔英語訳[34]からの重訳〕
パトリック・ファース『古代ローマの食卓』目羅公和訳(東洋書林、2007年)。

[33]

〔前掲書[32]のオランダ語原典〕
Faas P.C.P. Rond de tafel der Romeinen. Diemen, 1994.

[34]

〔前掲書[33]の英語訳〕
Faas P. Around the Roman Table. Trans. by S. Whiteside. New York, 2003.

[35]

〔アレクシス・ソーヤー『ごちそう尽くしパントロフェオン[27] 257頁参照)のロシア語訳〕
Сойер А. Таинства кулинарии. Гастрономическое великолепие античного мира / Пер. с англ. В.В. Левченко. М., 2015.

[36] Закуска для короля, румяна для королевы. Энциклопедия средневековой кухни и косметики / Авт.-сост. и пер. с латин. Н.С. Горелов. СПб., 2008.
[37]

塚田孝雄『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』(時事通信社、1991年)。
☞ 同上書[37]には、朝日文庫(朝日新聞社、1996年)もある。

[38] ジャン=ルイ・フランドラン、マッシモ・モンタナーリ編『食の歴史 T』宮原信・北代美和子監訳(藤原書店、2006年)。
[39] 同上『食の歴史 U』(藤原書店、2006年)。
[40] 同上『食の歴史 V』(藤原書店、2006年)「索引」:第V巻所収
[41] ブリジット・アン・ヘニッシュ『中世の食生活 断食と宴』藤原保明訳(法政大学出版局、1992年)叢書・ウニベルシタス
[42] Phillips R., Rix M. Vegetables. London, 1995.
[43] Сюткина О.А., Сюткин П.П. Русская кухня. От мифа к науке. М., 2022.
[44] Spencer C. British Food. An Extraordinary Thousand Years of History. London, 2002.
[45] 遠藤雅司『古代メソポタミア飯 ギルガメシュ叙事詩と最古のレシピ』(大和書房、2020年)。
[46] ジャン・ボテロ『最古の料理』松島英子訳(法政大学出版局、2003年)りぶらりあ選書
[47] Bottéro J. La plus vieille cuisine du monde. Paris, 2006.
[48] マックス・ミラー、アン・ボークワイン『人類4000年のレシピ バビロニアのごちそう・アステカの主食・華麗な宮廷料理 ―食の歴史をたどる65皿』神奈川夏子訳(日経ナショナルジオグラフィック、2024年)。
[49]

〔アピキウス『料理書』ラテン語原典と英語対訳〕
Apicius. A Critical Edition with an Introduction and an English Translation of the Latin Recipe Text Apicius. Trans. and ed. by C. Grocock and S. Grainger. Totnes, 2006.

[50] Grainger S. Cooking Apicius. Roman Recipes for Today. Totnes, 2006.
[51] ポール・フリードマン編『世界 食事の歴史 先史から現代まで』南 直人・山辺規子監訳(東洋書林、2009年)。
[52] 川端晶子『いま蘇る ブリア=サヴァランの美味学』(東信堂、2009年)。
[53] カール=ヴィルヘルム・ヴェーバー『古代ローマ生活事典』小竹澄栄訳(みすず書房、2011年)。
[54]

ケイティ・スチュワート『食と料理の世界史 各時代・各国の代表的料理111種付』木村尚三郎監訳(學生社、1981年)。
☞ 同上書[54]には、新装版『料理の文化史 各国の代表的111レシピー付』(学生社、1990年)もある。

[55] 『日本甜菜製糖60年史』(日本甜菜製糖株式会社、1979年)。
[56] 細川定治『甜菜』(養賢堂、1980年)。
[57] 『地域食材大百科』第2巻 野菜(農山漁村文化協会、2010年)。
[58] P. ファンデンベルク『神託 古代ギリシアをうごかしたもの』平井吉夫訳(河出書房新社、1982年)。
[59]

Phillips H. History of Cultivated Vegetables. Vol. 1. London, 1822.
〔電子版〕https://archive.org/details/historyofcultiva00phil(参照:2025.6.1)

[60] Zohary D., Hopf M. Weiss E. Domestication of Plants in the Old World. Oxford, 2012.
[61]

Феофраст. Исследование о растениях / Пер. с древнегреч. и примеч. М.Е. Сергеенко. Рязань, 2005.
☞ 同上書[61]の前付によれば、「テキストはソ連科学アカデミー出版社、1951年版に基づく」。

[62] Поскребышева Г.И. 100 лучших блюд на скорую руку. М., 2010.
[63] 『世界有用植物事典』(平凡社、1989年)。
[64] 長屋美代『標準ロシア料理』(柴田書店、1964年)。
[65] からだにおいしい野菜の便利帳 世界の野菜レシピ』(高橋書店、2010年)。
[66] ジェイン・グリグソン『西洋野菜料理百科 野菜の博物誌』平野和子・春日倫子訳(河出書房新社、1995年)。
[67] 水島 裕「食生活史と宗教(第十六報)―アピキウスの古代ローマの料理書―」(『金城学院大学論集 家政学編』第38号、1998年)61−77頁。
[68] 山口百々男編『和英:日本の文化・観光・歴史辞典[改訂版]』(三修社、2014年)。
[69] マグロンヌ・トゥーサン=サマ『世界食物百科 起源・歴史・文化・料理・シンボル』玉村豊男監訳(原書房、1999年)。
[70] 『日本大百科全書』第4巻(小学館、1985年)785頁「カエンサイ」(星川清親 執筆)。
[71] アンドリュー・ドルビー、サリー・グレインジャー『古代ギリシア・ローマの料理とレシピ』今川香代子訳(丸善株式会社、2002年)。
[72]

〔イタリア語原典からの英語訳、ペーパーバック版〕
Gozzini Giacosa I. A Taste of Ancient Rome. Trans. by A. Herklotz. Chicago, 1994.

[73] 改訂 調理用語辞典』(全国調理師養成施設協会、2003年)。
[74] 『図解 古代ローマ人の日常生活』(洋泉社、2012年)洋泉社MOOK
[75] レイチェル・ローダン『料理と帝国 食文化の世界史 紀元前2万年から現代まで』ラッセル秀子訳(みすず書房、2016年)。
[76]

〔アメリカ Martino Publishing による復刻版、2012年〕
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[78] バーナード・ルドフスキー『さあ横になって食べよう 忘れられた生活様式』奥野卓司訳(鹿島出版会、2016年)SD選書
[79] 高平鳴海『図解 食の歴史』(新紀元社、2015年)。
[80] R.E.F. スミス、D. クリスチャン『パンと塩 ロシア食生活の社会経済史』鈴木健夫・豊川浩一・斎藤君子・田辺三千広訳(平凡社、1999年)。
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〔電子版〕https://runivers.ru/upload/iblock/c13/ocherk%20domashney%20zhizni.pdf(参照:2025.6.1)

[82] Занков Д. Русь за трапезой. М., 2016.
[83] Павловская А.В. Русский мир. Характер, быт и нравы. Т. 2. М., 2009.

 

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